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風を切って歩け
同日


 橘 庄司は困惑していた。
 
 何に。

 目の前でプンプンと音が聞こえてきそうな程、怒る総務課の吉田さんに。


「もう!何度注意したら営業部は分かってくれるんですかぁ!普通のゴミ箱には衛生ゴミは入れたらダメって何回も言ってるのに!営業部からはもうゴミ箱撤去しますよ!所長に言いつけちゃいますからね!」
「す、すみません。いや、でも俺昨日まで有休使っててほぼ1週間出勤してなくて……」
「あとですね!営業部はぁ、加湿器もつけっぱなしで帰るんです!今週毎日つけっぱなしでしたぁ」

 だから、今週1日も出勤してないんです。
そう言いたい庄司の気持ちは、その後も続々と続く吉田さんの、どこかのんびりした営業部へのお怒りにより口をついて出る事はなかった。

 庄司は現在、昨日まで意気揚々と身に纏っていた母校の制服ではなくスーツを着ていた。そして、今居る場所も、それまで庄司が心躍らせ足を向けていた懐かしい場所では、まるでなかった。

 現在、庄司はスーツで会社に出勤していた。彼は今、29歳の、普通のサラリーマンに戻っていたのである。


          〇


「橘せんぱーい!遅いっすよ!」
「橘くん、やっと来たか」
「橘さんー!営業部最大のピンチに駆けつけてくれた英雄っすねー」
「橘先輩、5日間も有休とってどこ行ってたんですか?」

 庄司は営業部のオフィスの戸を開けた瞬間に、次々と飛んでくる明るい声に「はぁ」と小さく溜息をついた。母校に居た時よりここは明らかにうるさい。

「(大人って……なんだろう)」

 庄司は来て早々圧倒的な疲れに襲われながら、少しだけ首元のネクタイを緩めた。久しぶりに締めたせいで、少しきつくし過ぎたようだ。

「……俺、明日まできっちり休ませてもらう予定だったんですけど」

 庄司は騒がしい周りをいなしながら、先ほど何食わぬ顔で「橘くん、やっと来たか」などとのたまってきた上司にズンと詰め寄った。そんな庄司に上司、日比谷は右手を頭の後ろに持ってくると「悪いとは思ってるんだよ」と、全く悪びれた様子なく言った。

「いや、本当に申し訳ない。電話でも伝えたとは思うが、ピンチなんだよ。うち」
「月曜に支社長が視察に来るってやつですか?」
「そうなんだよー、うちの成績が去年より芳しくないって事で見回りに来る事が昨日決まってね」
「去年より悪いって言っても、うちの数字は全国の支社で東京本部除いたら一番成績良いじゃないですか!?」
「だから、言ったじゃないか。去年より悪いからって理由らしいよ」

 厳しすぎるよねぇ、と肩をすくめる日比谷に庄司は最早溜息を吐くより他なかった。確かに前年比でいけば、この営業部の成績は余り芳しくない。しかし、それは今年が悪いというより、去年様々なラッキーが続いたお陰で成績が良すぎたのだ。

 まさか、去年、全国1位の成績をこの営業部が、そして自分が収めるとは思わないではないか。

「そこで、だ。橘君の持ってた“立花商事”の案件あるじゃない?ほら、君が社名と同じ名前だからって、そこそこ無理に営業掛けて、しかも社長さんに気に入られて次で契約結べそう!って言ってた、アレ」
「日比谷部長、そのエピソード好きですよね」

 毎回、誰にでも、どの部署にでも言いまわる。機嫌よく「大好きだね、これからも語り継いでいくさ」と口にする日比谷にまたしても庄司は「大人とは……」と肩を落とす羽目になった。

「立花商事はそこそこ大口の取引だ。これを今日明日中に結んでおけば、支社長が視察に来た時に、後からスッと実はコレもあるんですーって数字がドバッと増えるだろ?これ、大事だと思わん?去年より成績悪いじゃん厳しく言ってやらなきゃって、事前情報が悪いモノしか持ってない相手に、後からプラスαの良い情報出すって。まぁ、それでも去年の数字には足りないけど、後出しでこっちに有利な材料があるのとないのでは、支社長のイメージもギャップで大分変ると思うんだよ」

 ね?と、それはもう妙案だと言わんばかりに言ってのける日比谷に、いつの間にか集まってきた営業部のメンバーまで口々に好き勝手言い始めた。

「橘さんは、マジ英雄っすよ!このピンチを救えるのは橘先輩しかいない!」
「そうそう、橘さん居ない間、電話対応してくれる人が居なくてめちゃくちゃ大変でしたよー!」
「橘せんぱーい!ココ全然わかんないんですけどー!」
「橘先輩、休みの間どこ行ってたんですか?海外?」

 小学校か、ここは。
 庄司は頭を抱えて「あー、はいはい」と育児に疲れて適当に子供に返事をする母親のような対応に切り替えた。一人一人にきちんと対応していたら、それこそキリがない。

「(ん?)」

 その瞬間、庄司はふと違和感を覚えた。
 そういえば、何故土曜日の今日に課のメンバー全員が出勤しているのか。いくら営業部が現場の動き如何により休日を変動させる課とは言え、土曜日に全員出勤とは珍しい。
庄司は若干の引っかかりを覚えつつ、ひとまずは目の前で「橘くん、やってくれるよね?」と、断られるなんて欠片も思っていない日比谷に否を示す事にした。

「いや、言いたい事は分かりますけど、日比谷部長。そんなコッチの都合でお客様のアポを勝手に変える訳にはいかないでしょう?月曜日は潔く支社長に怒られてください。日比谷部長が」

 日比谷部長が。そう、その一点に心の底からアクセントをつけて放った庄司に対し、日比谷は「待ってました」と言わんばかりの笑みで庄司を見た。

「それが、何の因果か立花商事の方から、来週のアポを今日に変更して欲しいって昨日連絡があってねぇ!いや、ほんと何の因果かね!しかも、そりゃあもちろん向こうは橘くんじゃなきゃ嫌だっていうもんだから。ね?」

 庄司はその瞬間、握りしめていた拳をこの日比谷と言う男にぶち込んでやろうかと思った。その位、彼の笑顔は庄司の苛立ちの琴線に見事に触れ、そのまま軽妙なメロディーを奏で始めん勢いで気持ちを逆なでにした。
しかし、今ここに居るのは学生服に身を包んだ橘庄司ではない。29歳の、良い大人である橘庄司だ。そんな事、できっこなかった。

 そして、握り締められた庄司の拳を『やめとけ!もう大人だろうが!』と、脳内でしっかり止めにかかっているのは他でもない高校生の庄司である。『大人なんかくそくらえじゃ!』と言い返すサラリーマン姿の庄司との葛藤は、理性という援軍もあり高校生の庄司へと軍配が上がった。
これじゃあ、いつもと逆ではないか。

「(大人ってなんだろう)」

 庄司は少しだけ日比谷から視線を外し、オフィスの天井を仰ぎ見た。昨日まで、高校生として胸を高鳴らせて過ごしていたが、どうやら庄司は自分達が思った程“大人”ではなかった事に気付いた。なんなら、昨日までに出会った高校生の彼らの方がよっぽど“大人”だ。

 そう、ハッキリとどこかで思い知ると、庄司はふっと小さく笑った。
大人の方が、よっぽど我儘じゃないか。

「わかりましたよ。この橘庄司、立花商事との商談をこのまま決めてきましょう」
「橘君ならそう言ってくれると思ってたよ」

 庄司が観念したように言うと、日比谷は「わかっていた」と言わんばかりに口角をこれでもかという程上げた。見事にこの上司の手のひらで踊らされている感は否めないが、出勤してしまった以上、早く仕事を終わらせて帰宅する事を先決と考えよう。

 夕方からでも伊中なら、誘えば夕食には付き合ってくれるに違いない。もはや、明日までと迫った貴重な休みだ。1分1秒だって無駄には出来ない。

「(早く、伊中に会わないと)」

 10月30日。休みも残り2日。
 庄司は昨日のプレゼンの後、一つの決断を下した。

「(伊中にだけは、ちゃんと俺の事を……言うぞ)」

 本当は黙ってこの関係を終わらせるつもりであったが、ここまでくるとそれはどうしても庄司自身許せない決断となっていた。きっと伝えたら伝えたで、この綱渡りのような関係が崩れてしまう事は容易に想像できた。

 その位、庄司のやっている事は面白半分でやってはいけない事だった。
その事実に、ここに来てようやく気付くのだから大人なんて名ばかりのクズ野郎だ。

 庄司は、あのまっすぐな山戸 伊中という青年に、出来る限りこちらもまっすぐで返したかった。今更“誠実”なんて言葉を使ってはちゃんちゃらおかしいかもしれないが、それでも、だ。

「(もしかしたら、伊中の方から連絡が来てるかも)」

 庄司はふと思うと、スーツのポケットから携帯を取り出した。そして、一瞬「ん」と怪訝そうな表情を浮かべると、もう片方のポケットに手を突っ込む。
その様子に、周りに群がっていた同僚の一人が「どうしたんだよ?」と声をかけた。

「いや、携帯が無くて」
「その手に持ってるじゃねぇか」
「いや、会社のじゃなくて。俺の携帯だよ。あっれ?上着の方か?」

 そう言ってゴソゴソと身に纏う布のポケットというポケットに手を突っ込んだ。そして、徐々にその表情は固く、眉間に寄った皺は濃くなっていく。

「100パーセント家に忘れてきてんな」
「私、携帯1日触らないとかムリー」
「橘先輩、休みの間どこ行ってたんですか?転活ですか?他社の面接ですか?」
「いや、この状況でマジで洒落にならん事言うなよ!田村!橘先輩、転職なんかしないですよね!?」

 本当に口々に好き勝手言ってくれる。
同僚達の言う通り携帯は自宅に違いない。職場から連絡を受け慌てて出て来たのがいけなかった。庄司はどこにも見つからない自身の携帯に、がっくりと肩を落とすと、本格的に仕事を早く終わらせて帰路につく事を決意した。

 しかし、それを予見するように日比谷の残酷な言葉が庄司の耳をついた。

「あ、立花商事の件、片が付いたらすぐに帰ってきてね。もう一つ、こっちの方が圧倒的にピンチなヤツがあるんだよ」
「え?」
「営業先に発送をかけないといけない控除証明書の発送の委託先がね、ちょっと不祥事やらかしたみたいで急遽発送委託業務を途中で離れたんだよー」
「なっ、なっ!?」
「見てごらん、あそこにある段ボールの山達を。あぁ、甘く見ちゃいけないよ。ここから見えてるのは氷山の一角。まだまだ倉庫の方に山のようにあるからね」
「…………」

 あぁ、だからだったのか。
 庄司はやっと先ほどから地味に喉の奥につっかえたような違和感の正体に行きついた気がした。
 土曜日は本来、会社の規定上休みではある。現場の人間はそうもいかないため、平日に合間を見て休む事も多いが、総務の吉田さんまでもが土曜日に出勤しているのは明らかにおかしい。

この会社は今、土日返上で全社員がこの危機に対応しているという事なのであろう。

「予定通り控除証明書は11月1日には死んでも発送させろと、上からのお達しだよ。これが1通でも遅れようものなら、橘くんの今回の営業成績の件だけでは、最早カバーできるようなものじゃないね」
「…………という事は」
「控除証明書の発送の準備が終わるまで、皆、帰れません!」
「いっ、嫌だ!」
「私だって嫌だよ、見てごらん。皆の手首。もうテーピング無しで業務できる人間なんて、橘くんしか居ないんだよ」

 そう、部長が言うや否や、その場に居る10名近くの同僚達が一斉に長袖のシャツを捲し上げ、手首を見せてきた。その手首には皆同様にテーピングが巻いてあり、よく見れば誰もがその顔に疲労困憊の表情を湛えていた。

「そんな、仲間の証みたいに見せられても……」
「橘先輩、俺今何通封入したと思います……?」
「い、いや……」
「私、昨日から泊まり込みですよ……なのにまだあんな段ボールあるし」
「そ、そんな……」

 最早、怨念と亡霊を背後に宿しているのではという程、そこに居る全員が疲労の中職務に当たっていた。控除証明書の顧客全員分なんて合わせたら何通になるのかなんて考えたくもない。

「わ、わかりましたよ。もう……」

 わかりました!!そう、最早ヤケクソだと大きな声で返事をする庄司に、最初からずっとしつこくも同じ質問をぶつけてきていた後輩の田村が庄司に向かって再度、同じ質問を問うてきた。その手にはやはり皆同様テーピングが巻いてある。

「橘先輩、休みの間どこに行ってたんですか?」
「あぁ!もう!ひみつだよ!」

 そう叫ぶなり、庄司は上着を羽織り会社を出た。


 彼は殆どヤケクソになりながら、風を切って歩いていったのだ。

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