御免こうむります
一足先に、たすけて
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そして、今。
俺はお腹もいっぱい、楽しいにこにこな気分いっぱいで鼻をふんふん言わせて、薄暗い道を歩いている。
お腹もいっぱいだし、今日はお仕事もしたからとても眠い。
早く渡瀬神社に帰って寝よう。
俺は「くあ」と自然に洩れた欠伸でめいっぱい口を開けながら思った。
しかし、その時。
俺の耳に、聞きなれた猫の声がうっすらと、しかし確かに聞こえてきた。
「ふーっ、ふーっ、ふうう」
苦しそうなその声。
聞きなれた、その鳴き声。
俺は声のする細い細い路地を見た。
俺は今は人間だ。
猫の時は暗くとも遠くがある程度見える。
けれど、今は見えない。
俺はその苦しげな鳴き声に引き寄せられるように路地の中に足を向けた。
そろそろと前へと進むと、声がはっきりと俺の耳に伝わって来た。
この声は、この鳴き声は。
「ぼすっ!」
「ふうううううう!」
俺が思わずぼすの名前を呼ぶと、ぼすは体を丸めた態勢から痛みをこらえるようにゆっくりと警戒の態勢をとった。
けれどその警戒態勢にも何の力もない事は見ていてすぐわかった。
ぼすは背中と腹をこれでもかというくらい引掻かれている。
血は止まっているものの、その傷は深くぐにゅぐにゅになっていた。
あれは、痛いなんてものじゃない。
俺はぼすの余りの状態に、自然と顔が引きつるのを感じた。
昨日、俺がぼすと喧嘩した時は俺はぼすにこんな手負いを負わせる事はできなかった。
なのに、今ぼすはこうして、とても深い傷を負っている。
何故か。
理由なんて簡単に予想がついた。
ぼすは強い猫だ。ここら一帯の猫の暗黙の了解だった“共有地”である味坂商店街を自分の縄張り下におけるくらいには。
しかし、それ故にぼすには敵が多かった。
多分、昨日俺との喧嘩のあと、ぼすは他の地区の縄張りのぼすに襲われたのだろう。
手負いの状態の時の縄張り争い程、分の悪いものはない。
俺はそれを昨日のぼすとの喧嘩で嫌という程思い知ったのだ。
俺の負わせた傷、もともと負っている右目の負傷。
いくらぼすだって無敵じゃない。
不意をつかれれば致命傷は負うし、もしくは。
負ける事だってある。
ぼすが負けたか引き分けたのか、あるいは紙一重で勝ったのかはわからない。
けれど、このままではボスは確実に死ぬだろう。
野良猫として生きていく上で、最も気を付けなければならないのは病気や怪我だ。
人里で暮らしている状態で、“飢え”というのはさほど心配するに及ばない。
しかし、飼いネコではない俺達が“病気”“怪我”この二つで命を落とす事は、決して珍しい事ではないのだ。
今ぼすが負っている傷。
これは放っておいて治る傷ではない。
それに、こんな弱った状態で、こんないつ他の猫が来るかもわからない所に蹲っているという事は、もうボスは自力で動ける状態ではないのだろう。
ぼすが死ぬ。
そう思い至って、俺は何故か胸の奥がきゅうんと変な気持になるのを感じた。
腹の毛がばさばさ言う感じだ。
猫が死ぬなんてよくある事だ。
猫は車に轢かれて死ぬし、それに、こうやって怪我でも病気でも、すぐに死んでしまう。
別に珍しくなんかない。
それに、ぼすが死ねば、もう俺を追いかけ回す猫も居なくなるし、きっと味坂商店街も共有地に戻る。
そうなれば俺にとっては良い事ずくしだ。
ぼすなんかほっておけ、ほっておけ。
そう、俺が心の中で叫んだ時。
(しってるぞ!お前、変なやつだってみんなが言ってたぞ!しってるぞ!)
遠い昔の、まだぼすが小さな子猫立った時の声が俺の頭の中に響いて来た。
とっくの昔に嫌われ者だった俺は、その時久々に同族から声をかけられたのだ。
呼んでもらえたのだ。
小さな、小さな、ゆうかんな子猫に。
俺は一匹ボッチだったあの日々から、ぼすに少しだけ暖かいほわほわの気持を貰ったのだ。
そんな、懐かしい記憶と気持が蘇った瞬間、俺は大股でぼすに近寄った。
『近づくな!嫌な匂いの人間め!近づくな!近づくな!』
「ふぅぅぅぅぅ」と威嚇しながら俺をギラギラと睨んでくるぼす。
俺は元猫の変な人間だからぼすの言葉がわかる。
ぼすはこんなに怪我をしていても弱いところを少しも見せない。
昔からぼすはゆうかんな子だった。
俺はぼすを抱きかかえようと手を伸ばした。
しかし、その瞬間ぼすの鋭いかぎ爪が俺の手を勢いよく引っ掻いた。
「った」
ピリッとした痛みと共に手の甲に三本の線が描かれ、そこからぷくりぷくりと真っ赤な血が滲み始めた。
『近づくな!近づくな!近づくな!嫌な匂いの人間め!アイツと同じ匂いの嫌な人間がっ!』
「ぼす、ぼす。おいで」
『近づくなっつってんだろうが!』
今度は噛まれた。
じくじく痛む俺の手。
どうやら、ぼすには俺の言葉は通じないらしい。
まぁ、仕方が無い。俺は話しているのは人間の言葉だ。
猫のぼすに伝わるわけがない。
俺は手を噛まれたまま、ボスの名前を呼び続けた。
「ぼす、ぼす、ぼーす」
「ふぅぅぅぅぅぅぅ」
「ぼす、よしよし。いいこ、いいこ」
人間の言葉だから伝わらないのはわかっている。
けれども、言わずにはおれなかった。
ボスは大人の猫だけど、今は傷を負った、子猫と同じくらい弱い存在だ。
だから「よしよし、いいこいいこ」と言う。
「ふー、ふー」
ぼすの噛む力が少しずつ弱くなってきた。
少し落ち着いてきたのだろう。
それに、もうそんなに長い時間抵抗できる程の体力はないのだ。
「よしよし、ぼすはいいこ」
俺は普段見る事の無い、弱弱しいぼすの姿に出会ったばかりの頃のアカを重ねていた。
がりがりのぎすぎすのふらふらで。
今にも死にそうな子猫。
「ふぅぅ、ふー」
俺は噛まれていない片方の手で、そっとぼすを撫でた。
一瞬ぼすの体がピクリと動き、固まる。
俺は流すように優しく、優しく、傷に触れないように撫でる。
俺が撫でられると気持ちがいいところを、ゆっくりゆっくり撫でてやる。
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ。ぼすはいいこ」
「ふー、ふうう」
「ぼーす、ほら。よしよし」
「にぃ」
ぼすが甘えるように鳴いた。
その瞬間、噛まれていた俺の手が解放される。
いたかったね、こわかったね、さみしかったね。
「ぼす、おいで」
俺は静かにそう言うと、警戒態勢からくたりと力のなくなったぼすの体を抱き上げた。
もう、ぼすは抵抗しなかった。
否、もうぼすに抵抗するだけの力はなかった。
ただ、俺の腕の中で「にゃあ、にゃあ」とか細く鳴く。
俺は元猫だから、ぼすの言葉がわかる。
だから、ぼすの気持がいたいほどよくわかる。
『いたい、こわい、こわい』
ぼすは体が大きな猫だ。
けれど、そんなぼすは今や俺の腕におさまってしまうくらい小さい。
ぼすはとても強い猫だ。
けれど、そんなぼすだって痛いのや死ぬのは怖い。
そう思うと、俺は胸がきゅうとなった。
頬をぼすの耳の後ろにすりすりする。
「いたかったね、こわかったね、さみしかったね」
わかるよ、ボス。
俺、全部わかるよ。
俺は、ぼすを抱っこしたままゆっくり歩いた。
ぼすを死なせたくなかった。
これは猫の時には感じなかった気持ちだ。
死ぬのは仕方の無い、当たり前の事の筈だった。
俺は、人間になって少しまた変になってしまったようだ。
「ぼす、だいじょうぶ。だいじょうぶ」
そう、ぼすに語りかけるものの、俺にはどうしたらいいのかわからなかった。
傷を治さないといけないのはわかるのだが、それをどうすればいいのかわからない。
助けたいのに、助け方がわからない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そうやって俺は当てもなく歩いた。
ただ、ひたすら歩いた。
腕の中のぼすが「にぃ。にぃ」と更にか細く鳴く。
力も知恵もない俺はひたすら歩く。
当てもなく、当てもなく
本当に、当てもなく?
俺は気付けば自分が見慣れた家の前に立っているのに気付いた。
いつも少しだけ玄関が空いていて、いつだって俺を迎え入れてくれる。
猫の俺を、迎えてくれる家。
(キジトラ、おはよう)
しろの、家。
けれど、今の俺は人間だ。
今朝のアカのように睨まれるかもしれない。
追い出されるかもしれない。
冷たい目で見られるかもしれない。
けれど、もう俺には頼る当てが思いつかない。
助けて欲しいのだ、ボスを。
いたいのからも、くるしいのからも、さみしいのからも、こわいのからも。
そう俺が真っ暗なしろの家の前へと一歩踏み出した瞬間。
「誰だ」
聞きなれた声が聞こえた。
いつも、俺に語りかけてくれた声。
俺は振り返った。
「俺の家に、なんか用か」
聞こえるのは大好きな、しろの声。
目の前には、まっしろな毛の、しろの姿。
その瞬間、俺は叫んでいた。
「たすけて、たすけて。しろ」
そう、俺が言った瞬間。
しろは小さく息を呑んだのだった。
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