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御免こうむります
一足先に、銭湯の女主人と(1)


人間とはほんとうに面白い生き物だ。

一つの感情や状況、物の名前にいくつもの呼び方を付けたりする。
ほんとうに、ほんとうに面白い。

この時の俺はまだ知らないのだが「猫の手も借りたい」というのも、とても忙しい事の“たとえ”らしい。
人間とはある物事を別の物事にたとえる生き物である。
たとえると言う事は、その気持ちをより分かりやすく、より直接的に他人に伝える為の手段だという。

人間は他人に自分の気持ちを伝えて、わかって欲しい生き物なのだろう。
わかってもらってどうしたいのかは俺にはよくわからない。

でも、きっとそれは俺が猫なせいだろう。
けれど、俺にもいつかそんな人間の気持が分かる日がくるだろうか。

人間とは、ほんとうに面白い生き物だ。








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俺はいつの間にか広くて見慣れないものがたくさんある建物の中に居た。

入ったところには赤と青の布切れが上からぶら下げられており、そこには人間の文字が大きく書かれていた。
なんだろう、ここは。
どうなるのだろう、俺は。

そんな掴めない状況の中俺はどうしているのかといえば……。

「こっち!ほら、早く!」

「う、うん」

「うんじゃない!返事は短くはい!でしょうが!」

「はっ、はい!」

怒られていた。
そして、キンキンのメスにぐいぐい腕を引っ張られる。
それはもう、物凄い力で。

俺は青の方の布の下をはらりと潜り抜けながら、俺の手を引っ張る人間のメスの後ろ姿を見た。

猫の手が借りたいのに、俺の人間の手を引っ張ってきたメスは、体は小さいのにとても力強かった。
ぐいぐい引っ張られて歩いている時、メスの毛がふわりと風に舞った。
俺の鼻にふわりと微かに良い匂いが流れ込んで来る。
これは、アカやしろにはない匂いだ。

人間のメスはオスとは違って毛の長い生き物だ。
たまに、メスでも短いのも居るけど、基本的にはオスよりも長い。
このキンキンのメスの毛は肩くらいまである。
明るい茶色い色の毛だ。

しかし、次の瞬間には俺の前でフワフワと毛を靡かせていたメスがくるりと俺の方へと向き直った。

「ほら、これに着替えて!」

「え?え?」

そう、戸惑う俺に向かってキンキンのメスから押し付けられたのは人間の洋服だった。
色は上が白で、下が濃い青。

なにやら、これは俺が今着ているものとは違って腕の部分も足の部分も布が足りていないように思える。
そうやって俺が押しつけられた洋服を、首を傾げながら見ていると、キンキンのメスは「あぁぁもう!早く!」と言うなり、俺の着ていた前の固い丸のついた服に手をかけた。
丸が穴から取れて前が開いていく。
こんな風にして着たり脱いだりする服だったのか。
よし、りかいした。

「こっちは夕方4時から店を開けなきゃなんないんだから!急いで!」

「は、はい!」

俺は思わず大きな声で返事をすると、いつの間にか固い丸のついた服を脱がされ、今度は先程メスが手渡してきた、白くて袖の足りない服を頭から勢いよくかぶせられた。
そのまま手と顔を服に空いていた穴から通される。

「っぷは!」

「下は自分で脱いで履く!」

「は、はい!」

キンキンのメスのお陰で上の洋服の着方や脱ぎ方がわかった。
下は……多分わかる。
下の腹の部分の真ん中にも丸いのがついてるが、さっきのメスみたいに外せばいいのだろう。
固い、意外と難しい。

そう、俺が初めての人間の服に悪戦苦闘していると、キンキンのメスは不自然に俺から目を逸らしながら、しかしその口だけは動かし続けた。

「キミ、今更だけど何くん?」

「えっと、俺は……にーと」

何くん?とは何だろう。
そうは思いながらも、俺は先程賢い子供に言われた“にーと”という言葉が頭をよぎるのを感じた。そしたら、いつの間にか口にも出ていた。

「ニート君?あぁ、キミ珍しい髪の毛と目の色だと思ったら、三国ケ丘大学の留学生の子ね?最近は交換留学生みたいな子が増えたからねぇ。けど、あなた。とっても日本語上手いじゃない?すごい、すごい」

「………ん?」

「あ、銭湯は初めて?珍しいでしょう!外国じゃ湯船にゆっくり浸る文化はないからねぇ。早目に仕事が終わったらお湯に入れてあげてもいいわよー!」

「んんん?」

このメスはとても凄い。
一人でずっとぺらぺらと喋っている。
そして、そんなメスの中で俺はいつの間にか名前が「ニート君」になっていた。
“何くん?”というのは俺の名前を聞いていたらしい。
俺はニートという名前でもなければ、外国人でもないのだが、どうにも俺に否定する暇は一切ない。
俺はまだ人間に慣れていないから、一気にたくさん喋るのは難しい。
ましてや、メスのぺらぺらの中に入って行くなんて絶対に無理だ。

メスがペラペラと喋っている間に、俺はやっとの事で洋服を脱ぎ終え、貰った丈の短い服を履いた。こっちは固い丸はなにもなかったので簡単だ。
そして、やっぱりこれは長さが足りないようで、それは俺の膝くらいまでしかなかった。
これは、子供用の洋服なのではないだろうか。
俺は子供ではないのだが。

そんな俺の気持とは裏腹に、キンキンのメスは俺から逸らしていた目線をチラリと向けると、すぐに顔いっぱいに笑顔を作った。

「よし!やっと履いたわね!案外、似合ってるじゃない」

「これでいいのか?短くないか?へんじゃない?」

「変じゃないない!これから濡れるから半そで半ズボン!これがお風呂掃除で一番適した格好なの!」

おふろそうじ?
そういえば、先程からこのメスは“せんとう”とか“おふろ”とか言っている。
俺は一体これから何をするのだろう。
猫の手はどこに必要なのだろう。
俺は今、人間の手だが大丈夫なのだろうか。

「今からニート君にはお風呂掃除をしてもらいます。ニート君の国では銭湯なんて無いだろうから、簡単に説明するわね。ここは味坂銭湯。50年前からずーっとある、地元のお風呂屋さんよ」

「味坂銭湯?お風呂屋さん?」

「そうそう。外国じゃシャワーで体を洗って流すだけでしょうけど、日本ではね、体を洗って、髪を洗って、体を綺麗にして、あったかいお湯に浸かる習慣があるの」

「体を洗ってお湯に浸かる?」

「そうよ。特にこの辺はね、三国ケ丘大学も近いし、学生も多いから風呂ナシのアパートも……まぁ少なくはないわけ。それに、昔は一家に一つのお風呂なんてなかった時代もあったから、お年寄りのお客さんも多い。もちろん若い人も多いわよ。みんなで、大きなお風呂で体を洗ってゆったり浸かって疲れを取る!それが銭湯よ」

「みんなで入る……ゆったり浸かって疲れをとる。それが、銭湯」

“お風呂”はなんとなく聞いた事があった。
人間は俺達猫と違って体のよごれを舐めて落としたりしない。
人間は水浴びをする事で汚れを落とすのだ。
どうやら、ここは人間が集まって体を綺麗にする為の水浴び場らしい。

「で、ここが脱衣所。服を脱ぐところよ。脱いだ服はそこらへんに籠があるでしょう?それに入れて、体を洗う為のタオルを一枚持って、さぁ、お風呂へ!見た方が早いからこっちいらっしゃい!」

「は、はい!」

俺はまたしても体が俺なんかよりも小さい筈の女に腕を引っ張られて、だついじょの奥にある扉まで歩いた。
少しだけ胸のドキドキが大きくなる。
別に走ってるわけでもないのに、とてもドキドキする。
きっと尻尾があったらピーンと立ってることだろう。

俺はきっと今楽しい気持ちなのだ。
にこにこだ。

「はい、ここがお風呂です!」

「っう、わー!」

ガラガラと横に開かれた扉の先には、俺が今まで見た事もない光景が広がっていた。
驚いた俺の声が、ぼおおんと変な感じに響き渡る。

「すごい……!すごいなぁ!」

まず俺の目に飛び込んできたのは、一番奥の壁に書かれた大きな山の絵だった。
上が白で、下が青色の山。
どーんと音が聞こえてきそうな、その大きな山の下には大きな四角い窪みがある。
そして、手前にはたくさんの四角い椅子のようなものと、壁にくっついているピカピカに光るもの、そしてその脇には長い太い紐のような先に備え付けられた変な形のもが壁に引っかけられている。
それらが、俺達の立つ方から奥に向かってずら―っと並んでいるのである。

生まれて初めて見た、これが人間の水浴び場。
これが、銭湯。

「すごいでしょ?これぞまさしく日本の銭湯よ!」

そう、メスは驚く俺の隣で得意気に笑ってみせる。
俺は初めて見る光景と、何をどう使うのかという好奇心で思わず入口からピョンと跳ねて中に駆けだそうとした。
が。

「ったい!」

「浴場は滑るから走らない!若くったって腰打ったら下手すると立てなくなるわよ!」

俺は突然横から飛び出してきたメスの平手に頭の後を叩かれた。
どうやらお風呂の中では走ってはいけないらしい。
確かにもう転ぶのは嫌なので、俺は「はい!」と返事をすると、そっと一歩お風呂場の中に足を踏み入れた。
足の裏がヒヤリとする。
確かに地面が少し濡れている。
このツルツルの人間の足では、確かに走ったらすぐに転がってしまいそうだ。

ひたひたひた。
一歩ずつ前へ進む。
初めてみる珍しいものばかり。
毛がぶわっと逆立つようだ。
俺がちょうど大きな絵の前の窪みまできたところで、突然あのキンキンのメスの声が響き渡った。

「そろそろ本題に入るわよ!」

ぶぉぉんという変な響き方と共に俺の耳をくすぐる。
俺は急いで「はい!」と振り返ると、そこには先程まで笑っていたメスの顔ではなく、きりっとした顔のメスが立っていた。

「ニート君にしてほしいのはこのお風呂のお掃除!綺麗にしてもらう事!今日バイトで入る予定だった学生が急に来れなくなっちゃったからキミが代打です。猫の手貸します、なんて初めて聞いた自己PRだったけど、私は嫌いじゃなかったわよ!」

「はい!」

「そんなに難しい事じゃないけど、掃除は心をこめてしっかりと!けど、サクサク素早くも忘れずに!やり方は私が今からざっと説明するから一回で覚えて!」

「はい!」

そこまでキンキンのメスは俺にまくしたてるように言うと、獲物を前にした猫のような目で俺の顔を見て来た。
そんなキンキンのメスの目に俺はブルリと体を震わせた。
毛がぶわっと立つような感覚。

「しっかりお仕事してもらいます!キミは猫の手なんだからね!」

「っは、はい!」

俺は思わず背筋を伸ばして大きな声で返事をした。
人間の手だけど、俺はこれから猫の手で。



そして、俺は生まれて初めての、おしごとをする事になったようです。

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あきゅろす。
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