御免こうむります 一足先に、二本足の逃走 人間と言う生き物は、俺が出会った中で一等面白い生き物である。 まず、人間はその数が他の生き物とは比べ物にならないくらい多い。 俺は街の近くに住んでいるから特にそう思うのかもしれないが、右を向いても左を向いても、そこには人、人、人だ。 しかし不思議な事に、こんなにたくさんの人が居るのに、人間は一回に生む子供の数は少ない。 基本的に一回に一人を生むのが殆どだという。 俺達猫なんか一回に5〜6匹は生むのに、どうして人間より数が少なく感じるのだろう。 そもそも、一人しか生めないのにどうしたらこんなにたくさんの数になるのか不思議でたまらない。 それに、人間には種類がある。 俺達猫なんか、縄張りの主か、オスか、メスか、子供か。 これくらいしか種類がないのに、人間にはそれぞれ何をする人、というような種類がたくさんあるのだ。 ごはんを作る人、たんぼを耕す人、家を建てる人、何かを教える人、悪い人間を捕まえる人。一つずつ挙げればキリがないくらい人間には種類がある。 たまに、何をするのか分からない人間もいる。 それは、夏なのに上から下まで布のある服を着て汗を流し、手には四角い鞄を持って走り回る人間であったり、はたまた、人が死んだ時に現れる毛の無いの人間であったり。 人間にはまだまだ俺の知らない種類の人間がたくさんいるだろう。 もう一つ、俺が人間の言葉を理解できるようになってから心底驚いた事がある。 名前の存在だ。 人間は何にでも名前を付ける。 猫の俺は、そもそも名前というものの存在を知らなかった。 けれど、人間の言葉に耳を傾けるようになってからというもの、人間の世界ではこの世にある全てのものに呼び名(名前)がある事を知ったのだ。 それを知った時、人間はそれはもう凄い事をするものだと感心した。 一つ一つに名前を考えていったその手間はどれほどのものだっただろう。 けれど、俺は名前というものの存在を知ってからそれまで匂いでしか覚えきれなかった人間の顔を、少しずつ認識できるようになった。 何か特別変わったわけではないのに、“名前”がある事によって、その人が他の人とはちょっと特別に見えるようになったのだ。 それは俺自身もそうだ。 俺には名前なんかなかった。 けれど、人間は俺にも名前を付けた。 それは人によって呼び方が違う。 俺にはたくさんの名前があったのだ。 “にゃんごろう”だったり“ぶーちゃん”だったり。 今のところ一番気に入っているのは“キジトラ”だ。 俺はキジトラと呼ばれるようになってから、俺と言う存在がふわっと宙に浮いて特別になったような気がしたのだ。 キジトラという猫はこんな猫だと、自分の事なのに今更ハッキリと俺の中にしっくりくるような、とても不思議な感覚になった。 そう考えると、名前というものはとても重要なものだ。 存在にカタチや意味をハッキリさせる、不思議な力がある。 つまり、俺が何を言いたいのかというと。 「……俺の、名前は、キジトラ」 俺は川の水面に映る自分の姿をジッと見つめながら小さく呟いた。 そこに映るのは、見慣れない人間の顔と、そして聞き慣れない人間の声だ。 しかし、それはどう考えても“俺”だった。 猫の俺、猫のキジトラだった筈の俺は、目を覚ました時、人間のキジトラになっていたのだ。 ----------- 渡瀬神社の軒下。 いつも俺が寝泊まりするソコで、目を覚ました俺は起きた瞬間頭を打ってしまった。 そのいつもとは違う目覚めに、俺はその瞬間目をパチリと開けた。 天井で打った頭がズキズキと痛むせいで、俺はとっさに前足を痛む頭へと持っていった のだが。 その前に、俺は動かした手が何やら異様に長い事に気付いた。 しかも、動き方がいつもと全然違う。 いつもは必死に伸ばして顔や頭に触れる程度なのに、俺の前足はいつもと違うところで大きく曲がったのだ。 「っ」 そうして、その瞬間俺の目に飛び込んできたものは、毛の生えた俺の手ではなく、手先が5本に別れた、見慣れた……人間の手だったのだ。 俺は驚きの余りまたもや体を大きく動かすと、その瞬間手狭感を覚えていた軒下で、また盛大に頭を打ってしまった。 「っいたい!」 俺は劇的な変化をみせた己の体を観察すべく、ゴソゴソと軒下から出ようと体をくねらせた。 いつもは、スルリと出入り出来る筈のソコは、今の俺の体では動くのも出るのも一苦労だった。 じゃりじゃりと砂が手に食い込む感覚が新鮮で、そして痛い。 いつもなら前足で砂利の地面を蹴ったってどうも思わないのに。 そして、やっとの事で軒下から這い出た俺は、今度はどのように動いたらいいのかわからず悪戦苦闘した。 手が5本の指、伸ばした足もスルリと長く、尻尾はない。 耳は頭の上ではなく顔の横にある。 俺はペタリと地面に座り込んだまま、バラバラな動きを見せる5本の指で顔や頭、そして体を触りまくった。 この時、俺はやっと自分が“人間”になったのでは、という考えに思い至った。 俺の知る中で、こんなカタチをしている生き物は人間以外知らない。 俺は変な猫だった筈なのだが、どうしてだろう。 「…………」 ともかく俺はどこをどう動かせば体がどう動くのかをその場で必死に考えた。 しかし、考えてもわからない。 自分の姿を全身で見渡せないというのは、頭の中に自分と言う生き物が確立されていないということ。俺の頭の中では、未だに俺は猫の体のままだ。 意識と実際の姿との違いは、体を動かすと言う当たり前の事すら難しくさせた。 なので、俺はとりあえず自らの姿を見るべく渡瀬神社の裏にある小さな川べりへと降りて来たのだ。 その時も、俺は四本足で歩くように地面を這いながら歩いた。砂利や大きな石が俺の体に当たって痛かった。 俺は人間は2本足で立って歩く事を知っていたが、それはその時の俺には難しすぎたのである。 だって、俺の頭の中での俺は、まだ猫だったのだから。 そうしてやっと川べりに下りた俺は初めて俺の目で、俺の姿をきちんと映しだした。 人間としての、キジトラという生き物の姿を。 「キージートーラ」 俺がそう口を動かすと水面に映る人間も同じように動く。 耳に聞こえるのは人間の大人のオスの声だ。 人間はオスかメスかで声の質が違う。 オスは低いし、メスは高い。 そして、子供か大人かでも違う。 子供は高く大きいし、大人は落ち着いてうるさくない。 その中で俺は大人のオスの声だった。 まぁ、俺は大人のオス猫だったのだからそれが道理だろう。 俺は水面に映った俺をまじまじと観察した。 毛が頭の上にしかない。 毛の色は猫の時の毛と同じように茶色のような鼠色のような。 ともかく猫の時の毛と同じ色だった。 毛の長さはアカやしろ達に比べて短い気がする。 アカやしろは肩あたりまで毛があるが俺は首にかかるか、かからないか。 あっちへ向いたりこっちへ向いたり、つんつんだ。 目の色も猫の時と同じ鈍い金のような色をしている。 鼻は猫の時とは比べ物にならないくらい高い。 ヒゲはない。口の周りはピンクだ。 たぶん、大人のオス。 アカやしろよりは大人の形をしている気がする。 そして、人間は毛が無い代わりに洋服という布で出来たものを着ている。 それが猫でいう毛にあたる部分らしい。 故に、今俺は毛はない代わりに人間が着ている洋服を着ている。 上は、真ん中が丸い固いのでひっかかっている白い服。 下は青い股の部分で別れた長い服。 何かを身に纏うという経験がないせいか、肌と布のこすれるのが気持ち悪い。 なんだかスースーする。 ぐーぱーぐーぱー。 のびのびのびのび。 手を開いたり結んだり。足を延ばしたりひっこめたり。 俺は水面を見ながらどう動けばどう動くのかを観察した。 見れば見る程人間で、動けば動く程おもしろい。 なんだか胸の毛がほわほわする……ような気がするが、俺に今胸の毛はない。 ので、何と言っていいのかわからないが、ほわほわするのだ。 しかし、その時俺は意識していない自分の変化に気付いた。 ほわほわすると思った瞬間、それまで動かなかった顔が動いたのだ。 口の両端が上に上がり、目が細くなる。 「わらった!」 俺は自然と笑っていたようだ。 猫には表情はあまりない。 対して人間はいろんな顔の動きを持っている。 人間はその時の気持ちによって表情がころころ変わるのだ。 俺も猫だったのに、人間みたいに顔が動く。 俺はそれが面白くて体だけでなく顔も動かした。 そんな事をして、俺がしばらく遊んでいたが俺はすぐに次の目的に想いを馳せた。 今、俺は人間だ。 それはきっと、かみさまがまた俺を人間にしてくれたのだ。 昨日、俺が言った事を、かみさまはやっぱりちゃんと聞いてくれていた。 「俺、今ならしろともしゃべれる」 口にした瞬間、それはとても体中の毛がブワブワなる事だと気付いた。 しろとしゃべれるだけではない。 アカだって、もう俺を無視しないだろう。 もしかしたら、りょうりだってできるかもしれない。 「うわぁ」 俺は両手をぐーのままぶんぶん手を振ると「よし」と水面に映る俺を見てもう一度口を開いた。 「俺はキジトラ。人間の、キジトラ」 その瞬間、俺の中の猫の俺が人間の俺になった。 キジトラという名の人間の俺。 見て、聞いて、実感した、俺の新しい姿。 名前のお陰で俺の形がスッと俺の中に流れ込んでくるようだった。 きちんと縁取りされて、もうブレない。 「どうぞ、よろしくお願いします」 水面に映る俺に向かって、俺は人間のように頭を下げた。 俺は変な猫から、変な人間になりました。 形さえ定まれば動く事なんて、立つ事なんて簡単だ。 俺がどれほどの長い間、人間の中で、人間を観察しながら生きて来たと思ってる。 俺はゆっくり二本脚で立ちあがるとゆっくりとバランスを取った。 視界が高い。それが面白い。 そして、ゆっくり足を前に出す。 みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、みぎ、ひだり。 みぎひだりみぎひだりみぎひだりみぎひだり。 俺は小走りになりながら、ぴょんと飛び上がった。 きっともし俺が今猫なら尻尾はピーンと立っているに違いない。 そして俺の顔は笑っている。 にこにこだ。 俺は渡瀬神社の四角い箱の前に立つと、いつもと違って細かく動く指で石を拾い上げ箱の中に投げ入れた。 そして、猫の時には出来なかった紐を揺らすのもしてみる。 がらん、がらん、なんていう鈍い音が頭の上から鳴り響く。 両手を離して、思い切り叩きつける。 パチン、パチン、なんて音が俺の手から鳴り響く。 そして、人間みたいに目を瞑ってブツブツ言う。 「おはよう、かみさま。俺の名前はキジトラです。猫じゃなくて、人間のキジトラです。俺の事、人間にしてくれて、ありがとう」 かみさまからは何も食べ物をもらったわけではないけれど、俺の口からは自然と“ありがとう”が漏れた。 上手く、できただろうか。人間がやるみたいに。 うん。きっと、上手くできた。 頭の中の俺の動きと、いつも見てた人間の動きが一緒だったから、多分大丈夫。 俺は瞑っていた目をパチリと開くと、クルリと渡瀬神社に背を向けた。 太陽はまだ上の方まで来ていないけれど、しろに会いに行こう。 今の俺は人間だからしろとお話できる。 キジトラだって言ったらしろは驚くだろうか。 そう、俺が自然と笑顔になりながら手をグーにしていると、またしても俺の耳が何かの音を拾った。 ざっ、ざっ、ざっ。 それは昨日と同じ、人間が走る音。渡瀬神社の階段を上る音。 きっとアカだ。昨日と全く同じ音だから。 俺はさっそく胸をワクワクさせながらこちらに来るであろう人間の姿を思い浮かべた。 「っは、っは、っは」 階段を駆け上がって来た人間、それはやっぱりアカだった。 俺は嬉しくて、早く人間になれた事を伝えたくて、アカの顔を見た瞬間声をかけようと口を開いた。 けど。 「っ!」 アカは俺の姿をチラリと見ると、たとえようもないくらい眉間に皺を寄せて怖い顔をした。 昨日の顔も怖かったけれど、それとまはた違った怖さ。 これは、なんといえばいいのだろうか、そう、これは。 「…………」 知らない者を見る、不審な目。 警戒の目。 俺のよく知る目だ。俺が他の猫に見られる、馴染みのある目。 俺はワクワクしていた心が、急にきゅううと締めつけられるような気持ちになると、何も声を出せず、ただ空気だけが口から吐き出された。 アカはそんな俺を不審気に俺を見ていたが、すぐに何かを思い出したように俺から目を逸らし、俺の脇を通り過ぎて行った。 「兄貴!居ますか!兄貴!」 あにき。 その声は俺ではなく、もう誰も居ない筈の渡瀬神社の軒下を覗き込んでいる。 そこには誰も居ないよ。 だって兄貴は俺だもの。 猫でなくて、人間になったんだよ。アカ。 そう言いたいのに、言葉が出ない。 俺は必死に俺を呼ぶアカの姿を後ろからジッと見ていた。 しかし、アカが立ちあがって、また俺の方を振り返ろうとした。 「いやだ」 俺は、思わずそう呟くとアカが振り返る前に渡瀬神社の階段を逃げるように下りた。 後ろから「テメェ待ちやがれ!」と叫ぶアカの声が響き渡る。 でも、俺は待たなかった。 初めての人間の体だったけれど、本能とは凄いもので、俺は初めてにして二本脚で全力で走ったのだ。 動かない筈の胸のトクントクンが俺の左胸のところで激しく鳴り響く。 久しぶりに聞いたそれは、懐かしいと言うより怖かった。 俺は変な猫になった。 変な猫になってから、他の猫達から恐がられるようになった。 どの猫も近寄ってこなくなった。 さっきアカがしたような目で俺を見るようになった。 今、俺は変な人間だ。 猫が人間になったなんて知られたら、また俺は猫の時みたいになる。 また、みんなから嫌われて、一人になる。 変な人間なんて知られたら駄目だ。 だめだ、だめだ、だめだ、だめだ。 「俺はふつうの人間、普通の人間。みんなと同じ」 普通の人間にならないと また俺は一人ぼっちになる! 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