心苦しくも私もゆとり世代でございます。 ・・・・・ ガチャリと。 背後から扉が開く音が聞こえた。 その瞬間、膝に顔を埋めていた春日の肩がビクリと震える。 誰かが春日の背後に立つ気配を感じた。 春日はトイレの手洗い場の前で蹲っていた。 宮野からの唐突の退職宣言に耐えきれず、春日は逃げ出してしまったのだ。 冷静になれと何度も自分に言い聞かせた。しかし、どうしても感情は、涙は、言う事を聞いてくれない。 『ひぃぃん』なんて言う、子供かとツッコミを入れたくなるような泣き声を店員に晒しながら、春日は逃げるようにお手洗いへと走った。 そして、個室にもどこにも使用者が居ない事が分かると、春日は我慢できずにその場にうずくまってしまった。 いつ、誰が入って来てもおかしくないトイレの入り口で何をしているんだと、春日自身思ったが、どうにも立ち上がる気力すらない。 『春日、俺、会社辞める事になった』 そう、宮野は言った。そこには揺るぎない意思の他に、もう多分上にも話は通してあるという事実も見え隠れしていた。 きっと、宮野の退職は揺るがない。決まっていた事なのだろう。 理由はわからない。聞きそびれた。 しかし、春日を襲う漠然とした不安は、急に春日を一人では立てなくなる程、彼を心細く、そして不安にさせた。 全ての仕事の指針だった。 いや、人生の先輩と言って言い程、宮野との出会いは春日の人生観をこの10カ月でゆるやかに変えた。 始めての職場、初めての社会人経験を、宮野の下で、宮野の背中を見て、宮野の言葉を聞いてやってきた。 いつか自分だって独り立ちして後輩なんかができたりるす未来があるとは思っていた。 しかし、そこには宮野が居るものだと信じて疑わなかった。 それに、こんなにすぐに独り立ちの時が来るなんて思いもしなかった。 すぐに、とはいっても1年近くはみっちり教えてもらったのだが。 それにしても、それだって。 唐突だ。 怖い、怖い、怖い、 「(怖い……怖いですよ。宮野さん)」 春日とて社会人だ。 上司の異動や転勤なんて部署の中でもないわけではなかった。 よくある事。 そう、頭では理解していた。 けれど、変化は突然訪れるなんて、そんなの本当の意味で春日はわかっちゃいなかった。 春日は老けてみられる。落ち着いてるね、なんて言われる。 けれど、春日だって普通の社会人1年目の若造だ。 経験した事がない事を、いくら頭で理解していても実感を持つ事はなかった。 今、その“よくある事”を春日は初めて自分の事として受け止めているのだ。 涙が止まらない。 不安と、恐怖で、止まらない。 そんな時だった。 扉の開く音を聞いたのは。 背後に、人の気配を感じたのは。 「っ!」 「っ大丈夫ですか!?」 その、どこか聞き覚えのある声に、春日は伏せていた顔を上げ、声のする方を振り返った。 すると、そこには……。 「っ!春日さんじゃないですか!?」 大宰府だった。 大宰府互譲。春日が12月25日、クリスマスの日に閉じ込められたエレベーターで一緒になった、若いイケメンの役職持ちの男。 春日は懐かしさと、引き続き襲ってくる不安に涙を流しながら口を開いた。 「……だ、だざふ、ざん……」 「ちょっ!どうしたんですか!?具合でも悪いんですか!?」 蹲りながらボロボロと涙を零す春日に、大宰府は先程まで自分が感じていた焦燥が一気に吹っ飛ぶのを感じると、慌てて春日に駆け寄った。 春日も春日で慌てる大宰府を前にブンブンと首を横に振った。 「ぢがうんでず。ずみまぜん……邪魔でずよね…。でも、ずみばぜん。まだちょっど、席には戻れそうにだいので。どうぞ、気にせず……」 「気にしますよ!どうしたんですか!?一体!……いや、それよりも。ここじゃ他の人が来た時に人目を引きますから……そうだ!立てますか?春日さん」 春日は大宰府にそっと手を取られると、顔を覗き込んでくる大宰府にコクリと頷いて、そろそろと立ち上がった。 その仕草に、大宰府は「あ、かわいい」と内心全く関係のない事が頭の片隅を掠めたのを感じた。この時、やはり大宰府は混乱していたのかもしれない。 連日連夜の仕事尽くし。 部下からの突然の退職宣言。 そして、予期せぬ喜ばしい再会。 疲れてよいのやら、悲しめばよいのやら、喜べばよいのやら。 そう、きっと彼は混乱していたのであった。 大宰府は取った春日の手をゆっくりと引き、背中をさすりながら。 まさかのトイレの一番奥の個室に春日を引きこんだ。 そして、共に個室に入り鍵を閉める。 他意はない。 誓って、大宰府には邪な他意など一切ない。 彼は、混乱していたのだ。 「座ってください。どうしたんですか?あんな所で、気分でも悪かったんですか?」 「……ぢがうんでず」 そして、連れ込まれた春日も混乱していた。 人手の足らない会社での激務。 上司からの退職宣言。 そして、予期せぬ驚きの再会。 疲れてよいのやら、悲しめばよいのやら、驚けばよいのやら。 そう、きっと彼も混乱していたのであった。 春日はトイレの個室に連れられ、あまつさえ狭い空間の中男二人が入り込み、鍵を閉められ。 そして自分は洋式の便座のフタを閉めた上に座らせられている。 が、春日も一切なにも変だと思わなかった。 確かに此処だと誰にも迷惑をかけなくて済む、程度に思っていた。 彼も、混乱していたのだ。 「大宰府ざん……今、俺、上司と飲みに……ぎでまじで」 「はい。それで?」 「俺の、面倒を、ずっど見てくれていた、上司で。でも、3月に辞めるって言われて……俺、俺……ひぃぃぃんっ」 ひぃぃんっ。 という奇怪な泣き声と共に語られた内容は、とてもシンプルだった。 お世話になった上司が辞める、だから悲しい。 しかし、それを聞いた大宰府はなんとも切ない気持になった。 「それは……悲しい、ですね。春日さん」 「ばい、はいっ。俺、もうふあんで、いつも頼りっぱだじだったので……」 そう言ってまた手で顔を覆う春日に、大宰府は春日の背中を手でさすった。 大の大人がその程度の事で泣いている。それを前にして普段の大宰府なら軽く引いていたかもしれない。 しかし、今は逆だった。 「(春日さんに、ここまで想ってもらえるなんて……羨ましい人も居るな)」 大宰府には、春日の涙を流す“上司”が羨ましくて仕方がなかった。 それは相手が春日だという事もある。加えて、今の春日の陥っている状況が更にそうさせた。 自分は、部下から手を離された。 離させてしまった。 と。 「でも、春日さん。こういう事初めてじゃないですよね?移動も転勤も、退職も、俺達サラリーマンにはつきものです」 「…………」 「受け入れなければならないんです」 そう、大宰府は自分に言い聞かせるように言った。 よくある事だから。 所詮仕事上だけでの付き合いだから。 折り合いをつけて、受け入れていくしかない。 そう、思う事で甘木の所へ戻った時の対応を決めてしまおうかと思ったのだ。 引きとめる言葉を大宰府は持たないと。 奪った自分は何も言えないのだ、と。 そして、それ以上に。 「(もう、怖いんだ。怖いんだよ)」 育てる事が。奪う事が。 辞めたければ、辞めればいい。 逃げだせばいい。自分が奪ってしまったのだから、止めるすべはない。 そう、受け入れて流してしまおうと、大宰府していたのだ。 けれど。 「初めて、です」 「は……?」 初めて?いや、そんな筈はないだろう。 大宰府は自分の耳を疑った。自分と同じとしか、もしくは年上で、他者の異動や転勤、退職を経験していないなんて事はあり得ない。 仕事は回るものだ。どんなに小さなところでも、変化は付きものの筈だ。 「っ!」 そう、大宰府が思った時、大宰府はドキリとした。 それまで手で顔を覆っていた春日が、ハッキリと大宰府の目を見ていた。 揺れる瞳、濡れる瞳、逸らされない視線、不安に揺れる気持ち。 それらが、先程の甘木を彷彿とさせた。 どくり、どくり、と心臓が重く鳴り響く。 「異動も、転勤も、退職だって……大宰府さんの言うとおり、社会人なら、当たり前の事だって、わかってます。けど……!」 「春日、さん」 「“その人”が居なくなるのは、いつだって“初めて”の筈です!同じ人は居ないんです!いつも初めてでしょう!当たり前になんて、俺はできません!だって、一人だけなのに!」 「っ!」 「辞めて欲しくない!まだ、いろいろ教えて欲しい!まだ、聞きたい事だって山ほどあるのに!俺は、怖いです!怖いんです!」 そう、叫ぶように放たれた春日の言葉に、大宰府はドッドッドッと心臓が早く鳴るのを感じた。怖いです、怖いんです。そう、春日の口から吐き出すように漏れる言葉に。 そして。 「……俺も、怖いです」 「っだ、大宰府さん……?」 大宰府は静かに泣いていた。 春日のようにボロボロと後を絶たず流れるような涙ではなく。 一筋、たった一筋、その目から流れていた。 「大宰府さん……」 「春日さん、俺、また……逃げようとしてました」 「…………」 「自分可愛さに、また、手を離そうとしました」 大宰府はジッと自分を見上げてくる春日の目を見ながら、涙を流していた。 本人の意思だとか、よくある事だとか。 そう言う体裁で覆い隠そうとしていた。 人を育てるという事への責任から、逃れようとしていた。 もう、怖くて、逃げようとしていた。 ショックだった。 自分のせいで、自分がきっかけで辞めたいと思わせてしまった事が。 けれど、もっとショックだったのは「辞めないでほしい」という言葉さえ、上手く表現できない不器用な自分の無力さだった。 頑張っているのは知っている。 成長していないなんて言わせない。 自信がなくて、引っ込み思案で、ビールが苦手で、物事の判断が遅くて、でも言った事は守ろうと頑張っている。 そんな、頼りない平成生まれのゆとり世代の部下に大宰府だって辞めて欲しいなんて思った事はない。 せっかくここまで“成長”してくれたのだ。未来、できれば自分の目の届く所で“育てた甲斐”を見てみたい。 なのに。 『無理です』という言葉に腰が引けてしまった。 だから受け入れて流してしまいそうになった。 先に手を離したのは、向こうだから、と。 けれど、本当はまだ甘木だって手を離したりなんかしていない。 人間なんだから迷う筈だ。不安にだってなる。 新人なのだったら、尚の事。 「(また、俺から手を離す所だった)」 そう、春日が思った瞬間。 春日の頬に、暖かい“何か”が触れた。 「大宰府さん、泣かないで、ください」 「っ!」 「すみません、そうですよね。大宰府さんだって……同じですよね。すみません、俺ばっかり、みたいな事言って。だから、泣かないでください」 そう、何度も何度も触れるのは春日の暖かい手だった。 涙を拭うように触れるその手は、春日の人柄を表すようにほのかに暖かかった。 その瞬間、カッと大宰府の顔に一気に熱が集中する。 またしても、あのエレベーターの時のような胸の高鳴り。 それと同時に、ある想いも大宰府の中に蘇っていた。 「(連絡先を、今度こそ……!)」 そう、突然その想いだけが大宰府の脳内を満たした時。 コンコン。 二人の入る個室の扉が何者かによって叩かれた。 その時、大宰府はビクリと体を強張らせ(断じてやましい気持ちのせいではない)、春日も驚きでビクリと体をはねさせた。 そして、次の瞬間。 「おーい、春日。大丈夫かー?」 「大宰府さん……大丈夫ですか?」 互いに聞きなれた連れの声を扉の向こうから聞いた。 二人は一瞬互いに顔を見合わせると、しめし合わせたわけではないのに二人して同じ事を口走っていた。 「「だ、大丈夫です……!」」 それは、二人がトイレの個室に入った約20分後の事だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |