[携帯モード] [URL送信]
深淵の闇に融けた


『ねぇ、大好きだよ』

奴は俺に囁く。静かに、まるでその空間を空気を振動させないかの如く。
そしてまた、ゆっくりと囁く。

『君を置いていかないよ』

その囁き方は、自らの内に渦巻く想いが伝われば良いと、願っているようにもみえる。

『傍を離れないから』

ゆるりと、立ち上がる。その身のこなしは人間とは思えない。武官だからとかそんな次元の話ではなかった。それはまるで絹が流れるように、水の様に掴めない。

『だから、信じて』

一つ微笑みを落としたように思える。定かではなかった。何故なら空気が、そんな風に感じさせたから。

『君を愛しているから』

とうとう、触れてくれはしなかった。
そうして去ってゆくのだ。奴の後ろにある深淵がこれから起こる事を物語ってくれていた。

『絳攸』

愛おしげに、呼ばれた。
とうとう自分は奴を見なかった。



―――嘘つき




唇だけを動かして、伝えた。声なんて出なかった。奴が嘘だけを残したそのお返しに、自分は。


真実を残した。
たったそれだけのこと。


そして奴は深淵に、消えていったのだ。
闇に消えていったのだ。






凜とした空気が辺りを包み込む。その中を楸瑛は突き進んでいた。鬼大将軍による羽林軍の訓練を終わらせ、吏部に向かっている途中だった。訓練後にも関わらず全く疲れを見せないその歩き。流石は将軍職にある男といったところか。楸瑛の目的は勿論、絳攸。
今頃彼はまだ筆を引っ切りなしに動かして書簡の処理をしているのであろうか。もしそうならば、休憩をとらせよう。きっと酷い顔色をして無理をしているに違いないから。色々と考えを巡らせつつ吏部の扉を潜り抜け、目的の人の居る場所へ一直線。―――居た。

「こうゆ…」

話掛けようとしたが最後まで言えなかった。何故なら絳攸は机に突っ伏して睡眠に入っていたからだ。しかし穏やかならまだ良いものの、眉間に皺が寄っていてまったく寝心地が悪そうだったので、悪いが起こすことにした。

「絳攸ー、起きてー」

体に手を掛けて優しく揺すってみた。するとやはり寝心地悪いお陰で眠りはそんなに深くはなかったらしく絳攸は直ぐに眼を覚ました。

「お早う、絳攸」

次の言葉が告げなかった。絳攸のこちらをみている瞳が虚ろだった。まだ夢と現の狭間にいるのだろうか。まさに声を更に掛けようとした瞬間だった。

「……うそつき」

突然絳攸は声を発した。寝起きのせいで声は掠れていた。しかし、寝起きだけの原因で声が掠れていると楸瑛は思えなかった。瞳を覗き込んでも何も見えてくるものはなかった。ただただ、虚ろであった。

「何かあったの?なんでも良いから言ってみて」

そうして暫く。楸瑛は辛抱強く待った。

「…どうせ消えるのだろう」

言葉。これで大体予想はついた。
沈痛な面持ちで楸瑛は絳攸の頬に触れた。

「もう離れないよ」
―――『傍を離れないから』

「置いて行きもしない」
―――『君を置いていかないよ』

楸瑛が真摯に語りつぐ言葉の全ては、絳攸にとって夢の繰り返しにしか他ならなかなった。

「…大好き。愛してる」
―――『ねぇ、大好きだよ』
―――『君を愛しているから』


「信じて」
―――『だから、信じて』

絳攸


びくっ、と体が震えた。と同時に楸瑛は抱きしめた。それは酷く絳攸を安心させた。先程の頬に触れる行為も。
すくなくとも夢の中の楸瑛は触れてはくれなかったから。

だから、確かめるように楸瑛の背中に手を伸ばした。すると抱擁は離さないとでもいうように、更に強くなった。なのにそれは優しく、優しく。



それでも絳攸の不安は完全に薄れることはなかった。体温を感じながら、深淵の闇に融けていった楸瑛が頭から離れる事はなかった。





End




長いなー…。今回ちょっと疲れた…(笑)

[*前へ]

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!