悪戯
佐助は意識の無い幸村を抱え、幸村にあてがわれた部屋の襖を開けた。
灯りがつけられており、きちんと敷かれた布団の枕元には水の入った二つの桶と手拭い、水差しが準備されていた。胃薬らしきものもある。
きっと強面の癖に世話上手な小十郎が準備してくれたのだろう。
片方の水桶は人肌程の温い湯だった。
冷たい水で手拭いを濡らし、赤く上気した頬に宛てて冷やしてやると、気持ちが良いのか、ピクリと一瞬動いてすぐに大人しくなった。
佐助はもう一度手拭いを水に浸しなおし、今度は固めに絞ってから額から頬までを覆うようにして手拭いをかけてやる。
音を立てないように立ち上がり、灯りを消した。月明かりに照らされる主人の傍らに戻り、幸村の眠りが深くなるのを待った。
寝息を確認し、幸村の着流しを寛げた佐助は、温湯につけたもう一つの手拭いで、幸村の身体を丁寧に拭っていく。
首筋から肩、腕と拭い終わると、さっぱりしたのか主の寝息が穏やかになったような気がした。
ぬるくなった顔の手拭いを冷やしなおして、また顔を覆ってやる。
暫くすると、喉が渇いたのか幸村の唇が小さく「水」と呟くのを聞いて、水差しを口元に運んだ。
「旦那、少しずつ飲むんだよ」
佐助は注意深く水差しを傾けていき、幸村の唇に水を注いでいく。
嚥下するのを待ち、また水差しをゆっくりと傾ける。
それを繰り返し、水差しの水が半分程に減った頃。小さな唇から満足気なため息が漏れたのを聞いて、水差しを口元から離した。
佐助は幸村の頭をそっと撫でてやりながら考える。
男女が手を繋いでいるのを見るだけで「破廉恥!!」といって顔を赤らめる人だ。婚姻などまだまだ到底考えられないのかもしれない。
だが、このままでいいはずもない。
佐助は心の中で小さくため息をついた。
幸村は虎の若人と称される程の有望株だ。
年頃という事もあってか、最近では特に幸村宛ての恋文が後を絶たない。
今は手拭いで覆われている顔は、黙っていれば十分に整っているものだったし、少々融通はきかないものの、まっすぐで情に厚い性格は誰からも好かれ、女中達が密かに黄色い声を上げているのを佐助は知っている。
しかも、戦場では紅蓮の鬼と称され武田の中心を担う程の武将。
周りが放っておく筈が無い。
だが、当の本人にその自覚は無く幸村は尽く誘いを断っては日々修練に費やしてしまう。
きっと、放っておけば一生女性と手を繋ぐ事もできないだろう。
ある日、信玄から呼び出しを受けた佐助は、「幸村に恋仲になりそうな者はいないのか」と聞かれた。
どうやら、幸村が誘いを断った者から相談を受けたらしい。
心当たりがある筈も無く、ついでに恋文を尽く断っている事を伝えると信玄は何やら考え込む素振りを見せた。
「色恋については成り行きを見守るべし」と構えていた信玄だったが、見守っているだけでは埒があかないと思い始めたようだった。
「大将が仲を取り持てば、旦那は断れないと思いますよ?」
信玄は少し思案していた様子だったが「やむを得ん」と頷いた。
後日、幸村は敬愛する師から婚姻話を貰う事となり、自棄酒に溺れ今に至る。
遅かれ早かれこうなっていた筈だと思うものの、裏で今回の話を後押しした罪悪感に佐助の胸が痛んだ。
弁丸という、幼名の時から側で仕えている主人だ。
よい妻を迎えて子を持ち、幸せになって貰いたい…。
月明かりに照らされる幸村の顔を見ていたら、幸村の唇が小さく動いた。
どうやらただの寝言らしい。
佐助は微笑んで幸村を見守る。
きっと幸村は今回の話を断らない。あんなに小さかったのに、妻を迎えてもおかしくない歳になったと思うと、よくぞこんなに大きくなったものだと思う。
これだけ近くで主人の寝顔を見るのは久し振りの事だった。
髪を撫でてやりながら、佐助はぼんやりと幸村の唇を見ていた。
色を失った視界でも赤いとわかる唇は薄く開かれており、たまに小さく動くのが愛らしくて、ずっと見ていたい気分になった。
ふと、幸村の唇は柔らかそうだと思った。
きっと、凄く柔らかいのだろうとそう思う。
悪戯に触れてみたい衝動に駆られて、慌てて我にかえった。
『俺様ってば何考えてんの!!!』
何を考えているのだと自分を戒める。だが、幸村の唇にどうしても視線がいくのを止められなかった。
そのうち、水に濡れた唇が妙に艶めいて見えてきて佐助は焦り始める。
視線を反らすと、今度はくつろげた着流しから覗く白い肌が目に入ってくる。
幸村の首筋は思いの外細く、月明かりに照らされた肌は絹のようにきめ細かい。
幸村の肌が綺麗なのは以前から知っていた。あの肌に触れるのはさぞかし心地が良いものだろう…
今まで何度も身体を拭ってやった事があるのに、こうやって意識するのは初めての事だった。
それこそたった今拭ってやったばかりなのに、素肌に触れて改めて感触を確かめてみたくなる。
身体の芯が疼きはじめるのを感じ、自覚しながらも佐助はそれを認める訳にはいかなかった。
主人に色気を感じるなどあってはならない事だった。
旦那はもうすぐ、可愛い奥さんを貰うんだから!
だが、そう考えると何故だかまた胸が痛み始めた。
幸村が妻を迎えれば、きっと二人の関係も変わってしまう事だろう。
実際どうなるかは一緒に住んでみなくては分からない。だが、今までのように世話を焼くのは自分の役割ではなくなるだろうし、きっと、今のように側にいるという訳にもいかなくなる…。
そう思うと何とも言えない淋しさと、焦りにも似た複雑な感情が沸き起こってきて自分でも驚いた。
忍びが動揺してどうするのだと冷静な頭で考える。
そういえば、と思い出したように周りの気配を探ってみた。部屋に入る時にも確認したが、やはり忍びが潜んでいる気配はない。
信用してくれているのか、探られても困らない自信があるのか…。こんなに緩くて良いのかと余計な心配をしてしまう。
色々考えたが、やはり余計な世話だった。
「…さすけ…」
ふいに名前を呼ばれ、佐助は内心ドキリとする。
…どうやら、また寝言だったらしい。
そうわかって、何故だか佐助は安堵した。
暫くするとまた深い眠りに入ったらしい幸村から規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……」
自分でも驚く程、この部屋に二人しかいない事を意識してしまう。
そう、今この暗闇に在るのは、
間違いなく自分と主人の二人きりなのだ…。
佐助は引き寄せられるように幸村の唇に口付けた。
触れるだけの優しく短い触れ合い。
すぐに顔を離した佐助は、途端に居たたまれなくなって逃げるように屋根裏に姿を消した。
幸村の唇は思ってたよりもずっと柔らかかった。
柄にもなくときめいて、佐助は暫く主人と距離を置こうと心に決めた。
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