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輪廻-4
「うわ……どうしたの、いきなり?」

 な、何でだ……? んな馬鹿な……有り得ない。

「……っ〜――!!」

 全身を貫く、極限まで純度を高めた痛みの感覚。

 本当なら暴れ回って気を紛らせたいところなのだが、怪我の所為でそうもいかない。仕方なく、頬を押さえこんで悶絶するに至る。

「もしかしてブラック無理だった?」

「ひが……は、はが……」

「歯?」

「ひょ……はおる……へんえんひょ……」

「タオル? 洗面所?」

 俺はコクコクと、痛みに障らないように緩慢な動きで首を縦に振る。

 彼女は彼女で、俺の前方二・三メートルにわたって放射状にコーヒーがぶちまけられている、という惨状から、大方言いたい事を理解してくれたのか、

「まったく……」

 と、溜め息もそこそこに立ち上がる。

 それより、よくもまぁ、あれだけ不明瞭な台詞を聞き取れたな。今はあまり喋りたくない俺にとっては有り難いことこの上ないが、不思議で仕方がない。

「はぁっ……はぁっ……」

 俺は、そんな彼女の遠ざかる足音を聞きつつ、全身を走る、熱を帯びたあの犬に因る傷口とは正反対の、悪寒さえ感じる痛みを押さえ込むように息を調える。

 原因は単純。虫歯、だ。

 だが、それが痛んだのは昨日のこと。歯医者に行って――その後も若干の痛みは残っていたものの――確かに治してもらったはずだ。長時間の診療待ち、というおまけ付きで。

 だが、現に昨日と全く同じところが、全く同じように痛む、ということは……。

 ……ヤブだったのかよあのクソ歯医者……。ふざけやがって。もう絶対行かね……。

 と、怨嗟の文句を述べてみるが、この近辺に開業している歯科医はあの一カ所だけ。もし虫歯になるようなことがあれば、必然的にあそこを訪れるしかなくなるのだ。しかし、それがまた、堪らなく腹立たしい。

「まったくもう……。なに、虫歯?」

 歯を食いしばって怒りに堪えることも許されず、俺が違った意味で悶絶していた最中。いつの間にか、タオルと呼ぶにはおこがましいほど薄汚れた布を片手に携えた、ポニーテールの少女が脇に立っていた。

「うん、まあ……」

 相変わらず、呆れた風な空気を惜しみなく漂わせる彼女に、俺は苦笑いをもってして返す。

 気付けば、先程までの重苦しい感情は、彼女の立ち姿からは消えていた。単に、裏側に隠しているだけなのかもしれないが、それでも俺としては有り難い。やはり、変に気を使われたままでいるのは居心地の悪いものだ。そう考えれば、この虫歯にも、ヤブの歯医者にも――この瞬間に於ける、という超限定的な範囲ではあるが――感謝しないといけない。のかもしれない。

「あ、タオル、ありがとな」

 俺は、彼女の右手に所在無く揺れるタオル――というより雑巾に手を伸ばす。しっかりとそれを持ってくるあたりが、家中を物色した成果なのだろうか。

「いいわよ。私がやるから」

 しかし、彼女は俺の手をすかすように、雑巾を逆の手に持ち変える。

「君ね、仮にも怪我人なんだから大人しくしてなさい。もし傷口が開いたらどうするの」

「そりゃそうだけど……。怪我してるのはお互い様だろ? お前は平気なのかよ」

「ああ、それなら……ほら」

 彼女は言い終えるなり、あまりにも平然とした表情と、あまりにも自然な動作で、纏うブラウスの右側の襟をすっと下げた。透き通るような白い肌や、艶かしい鎖骨が露出する。

 寸前に、俺は首を捻りなんとか直視を回避した。全く警戒していないときに突然そういう事をするのは、本当に勘弁してほしい。

 が、昨日のことで、彼女がこういった反応を快く思わないのは学習済み。なので、一応横目を這わせて、昨日ぽっかりと肉が抉られていた箇所に焦点を合わせる。

「おぉ、よかったな。治ってるじゃないか」

 ある程度予想はしていたが、あの痛々しい傷痕は、綺麗さっぱりと消え失せていた。ただ、何の変哲もない肌がそこにある。あの悲惨な状態を知っている俺にしてみれば、大きな違和感を覚えずにはいられなかったが、一度同じような光景――規模は桁違いに小さいが――を見ていたためか、それほど驚くということはなかった。

 しかし、研究部なる部所で精製された毒薬は、奇しくも彼女の言の通り、まだ開発段階だったということか。数時間で中和可能ならば、余程深い一撃を急所へ喰らわない限り、出血で命を脅かされるところまではいかないだろう。

 残る問題は、開発段階故の未発見の副作用なのだが……彼女の顔色を見ている限り、現段階で心配する必要はなさそうだ。

 安堵の息を僅かに漏らす。

 それから一瞬の間をおいて、ブラウスの襟を直しつつ、彼女が口を開いた。


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