邂逅ー1
俺は家のドアに外側から鍵をかけ、歯医者への道を歩き出す。
「はぁ……」
否応なしに溜息が溢れた。
結局、あのコーヒーを片付けなければならなかったせいで、家を出るのが三十分は遅れた。
ポケットから携帯を取り出して時刻を確認すると、もう診察の始まる時間だ。これでは、かなり待たされることは間違いないだろう。
くそぅ……。
恨めしそうに呟いてみても、春の柔らかい風が頬を撫でるだけだ。
しかしそれですら今の俺には苦痛で、虫歯の鋭い痛みがビリッと走るだけだった。
今日は四月一日。いっその事この痛みも『エイプリルフールで嘘でした〜』とかならよかったのに。
俺はそれまで歩いていた人通りの多い広葉樹の並木道を左に折れ、寂しい小道へと入った。
それまで頭上には、透き通った緑色の屋根のような梢があったから気付かなかったが、今日はかなり良い天気のようだ。
お天道様が俺を嘲笑うかのように、青い空の上から見下している。
そのせいか、まだ午前中だというのに日なたはかなり暑い。
今、太陽のある南側に広がるのは、この辺りで一番広い公園。日差しを遮るものが何も無い。
そのため、俺はまだ春だというのに、額に浮かぶ汗を拭いながら進むことになるのだった。
はぁ……こんな事なら、少々遠回りでもあの並木道を歩いとけばよかった……。
本日何度目になるか分からないため息を吐きながら、だだっ広い公園へと足を向ける。
ここを突っ切るのが、歯医者へ行くには一番の近道なのだ。
そしてなにより、ここには“あれ”がある――。
「うん。やっぱりきれいだな……」
公園の中心部にぽつんとそびえ立つ木。
――桜。
今年は早くから温かくなったせいか、まだこの時期だというのに満開の花を咲かせている。
俺はこの桜の木が好きだった。今日みたいに抜けるような青空の日は特に。
花の桃と空の青とのコントラスト。木の下にだけ広がるピンク色の絨毯。
それは、一匹狼のこの木だからこそ醸し出せる、一種の風格のような美しさだった。
この木を見ていると、虫歯の痛みなんか忘れさせてくれる…………とはいかないようで、感傷に浸っていた俺を、例の痛みが現実へと引き戻す。
…分かったよ。行けばいいんだろ、行けば。
多少名残惜しくはあるものの、帰りにはまたここを通るのだ。この忌ま忌ましい痛みが取れたあとに、ゆっくりと眺めればいいだろう。
俺は視線を進行方向へと向け、その場を立ち去った。
公園を抜けると、そこには待ちに待った日影があるじゃないか。俺は迷わずそこへ飛び込む。
そこは今までの灼熱地獄と比べれば、まさに天国。
涼しい風が、火照った体を拭き抜ける。汗をかいたため非常に気持ちいい。だが虫歯が痛む。
何なんだこいつは。俺の爽やかな気分を台なしにしやがって。
段々この虫歯に対して怒りを覚え始めた俺は、少しでも早く消し去るために更に歩調を早めるのだった。
そのまま百メートルほど進んだところだっただろうか。俺は大変な事を思い出した。
…保険証……持って来たっけ?
一々探すのが面倒なので、診察券はいつも財布の中に入れてある。
しかし、無くすと大変な事になる保険証だけは家の棚の中に閉まってあるのだ。
慌てて財布を取りだし、中を確認する。やはり入っていない。
ジャケットの内ポケットに手を入れる。……ない。
右、左、後ろ。ズボンの全てのポケットに手を突っ込んでみたが見つからない。
忘れて来たのかよ、俺……。
このまま歯医者に逝ってしまったら、通常の三倍以上の診察料をとられる。選択肢は、AからDまで一度帰る、しかない。
俺はUターンをして、もと来た道を引き返す。
二度あることは三度あるってか。……あれ?二回で済んだっけかな?
…とにかく、踏んだり蹴ったりとは、まさに今日のような日の事を言うんだろう。
またしばらく肩を落として歩いて行くと、俺は再び公園の入口に戻った。日影が途切れ、日に当たった明るい地面が火照った腕で手招きしている。
これからまたあの道を引き返すと思うと、果てしなく気が滅入る。
仕方がない。
覚悟を決めると、俺はこれから続く日なた地獄へと足を踏み入れた。
少しでも早くあの並木道にたどり着くため、少し早足で進んでいく。
「くっそ…あち〜……」
しかし、それで涼しくなるわけもなく、小さな声で不満を漏らしてしまうのだった。
しばらくすると、あの桜の木が見えてきた。
相変わらず美しい。
しかし――
行きのときとは違う光景に見とれ、俺はぴたりと足を止めた。
――どうやら今日は、それほど悪い日でも無いらしい。
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