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真実と嘘-2
 では、彼女は何を求めているというのだろうか。

 瀕死の重傷を負っている見ず知らずの男を、わざわざ慣れない包帯を巻いてまで助けたのだ。きっと、その‘協力’というのは、俺にしか出来ないことなのだろう。

 俺にしか出来ないこと、か。……まさかとは思うが、暫くこの家に住まわせろ、とでも言い出すんじゃじゃないだろうな。年頃の女の子が、一人暮らしの男の家に居候をするのは、些か以上に問題があるだろう。こちらとしても緊張して仕方ないし、もしご近所に妙な噂でも流れてみろ。恥ずかしくて外も歩けない。

 ……いや、待てよ。彼女の話に拠ると、どうやら今日――則ち四月一日は無限に繰り返される羽目になったらしい。仮にそんな噂が流れたとしても、明日にはその記憶は消えている……のだろうか? しかし、若い女が桐原家に住み始めたという事実は……あぁ、それも日付が変われば頭から抜けてしまう……のか?

 ……やばい。冷静に考えれば考えるほど、頭がこんがらがって――

「あ」

 無意識の声が漏れる。俺の口の中で作業をしていた少女が、不思議の色を僅かに浮かべてこちらを見上げた。……が、そちらに気を払っている余裕はない。

 ……‘冷静になって’? いつの間にそんな余裕が出来ていたんだ、この俺に? ついさっきまで、かなり精神的にダメージを負っていたはずだろ?

 口の中の彼女には悪いが、思わず声が漏れるほどその衝撃は鮮烈だった。そしてそれと同時に、先程から輝き続けるテレビの液晶画面やテーブルに乗る歯磨き用具一式、無言のまま作業を続ける彼女、部分的に見ればどうということはない点であるそれら全てが、一本の線として構築される感覚を得る。

 もしかして――。

「どうしたの? 急に変な声なんて出して」

 しかし、そんな穏やかな思考の時間は長くは続かなかった。

「ん……いや、なんでも――」

「あ、もしかして痛かった? ごめんなさい」

 そして思う。俺なんかに、彼女がそこまで気を使ってくれるはずがないな、と。

「ホントになんでもないって。俺の方こそ変な声出して悪かったよ」

 先ほど浮かんだ、あまりにも自分に都合の良すぎる考えを、そっと胸の中に仕舞い込む。

 時計の長針は、俺が目を覚ました時指していたのと同じ数字の上にいた。

「そんなことより、虫歯の方はどうなってんだ? まだかかりそうか?」

 彼女の小さな誤解を解くために、そして何より、自身の気持ちを切り替えるために、話題の転換は必要だった。治療してもらっている身でこのようなことを言うのは気が引ける、以上におこがましいのではあるが。

 しかしながら、彼女が虫歯を診だしてから、かなりの時間が経っているのもまた事実。厳密に時計を確認していたわけではないが、三十分はこうしているような気がする。そろそろ、顎も疲れてきたころだった。

「あぁ、それなら、ちょうど今終わったところよ」

 彼女は答えつつ、それまでの膝立ちを、上半身を斜め後ろに落とすことで崩し、正座の体勢に移る。それまで同じ高さだった視線が、俺の胸の辺りまで下がった。

「終わった?」

 俺は、俄かには信じ難い、といった口調で、暗に彼女の言を否定してみせる。

「そ」

 しかし、そんな俺の意図など気にも留めていない様子で、彼女は短く応える。そのまま両の拳を真上に突き上げる伸びのポーズで、緊張しきった体中の筋肉をほぐしていく。

 そんな彼女を眺めつつ、俺は、それまで鋭利な刃物で刺されたような鮮烈な痛みを発していた下の奥歯を、上側のそれと、恐る恐る噛み合わせる。

 と、どこか寒ささえ感じさせるような、虫歯特有のあの痛みが襲って――こない。

「……ホントだ。全然痛くない」

 最後の確認に、舌先で内側から件の歯の内側をなぞってみるが、特段変わったことはない。ただ、何かが歯の上を撫でている、その感覚があるのみだった。

 期待していたような派手な演出はなかったが、その分効果は折り紙付きということか。変化の速度がゆっくりだったから、患者である俺ですら気付けなかったらしく、知らぬ間に痛みはすっかり消え去っている。

「しかし凄いな。ここまで完璧に治せるなんて」

 昨日――日付は今日と同じだが――のことを思い返してみても、その道の専門である歯科医ですら100%痛みを取り去ることは出来なかった。ばかりか、

――「また一週間後に来て下さいね」――

 そんな台詞を、治療後のマスクの向こう側から吐かれ、更にそれだけでは飽きたらず、帰りがけに、受付で次の予約までさせられる始末。


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あきゅろす。
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