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novel
sigaro di umber bruciato


 深く沈んだ静寂の世界に、ゆらりと一筋の紫煙が立ち昇る。蛇のように鎌首を擡げたそれはゆっくりと上を目指し、だが結局天に届くことなく霧散した。
 見上げたそれが執務室の天井であることに気付き、スクアーロはようやく自分が床に転がっていることに気付いた。
「…なんでオレこんなとこに寝てんだぁ?」
 何気なく呟いた声は驚くほど無惨に掠れている。お陰で眠りに落ちる、というか気を失う前の記憶も一気に蘇ってきたが、あまり喜ばしい事態とは言い難い。
「いい夢は見れたか、ドカス」
 思いがけずすぐ側から声がして、スクアーロは上半身を起こすなり全身の毛穴という毛穴からぶわっと怒気をほとばしらせた。
「お゛う!誰かさんのおかげでなぁ!」
 だが、スクアーロの身体に鬱血と歯型と擦過傷を刻んだ犯人は、ちらりと五月蝿い虫でも払うような視線を投げて寄越しただけだ。
「目が覚めたならとっとと働け。てめーが3週間も留守にしやがったせいで雑務が滞ってる」
「そう思うなら自分で何とかしやがれぇ!あれもこれもそれも全部、元はお前の仕事だろうが!」
 海外出張と100番勝負の連戦で『ほんのちょっと』留守にした。その間雑務押し付け係不在による書類仕事の皺寄せを食ったらしい暴君は、溜め込んだ鬱憤を限りなく健康的な方向で発散させたばかりで、憎たらしいくらいすっきりとした顔をしている。
 一方3週間分の暴虐を一気に叩き込まれたスクアーロは、とてもじゃないが立ち上がれるような状態ではない。いつものこと、と言ってしまえばそれまでだが、留守にする度回数上乗せで挑まれてはこちらの身がもたなかった。
 緩んだ襟元以外乱れた痕跡のないザンザスは、つい先刻まで人の身体を好き放題貪っていた張本人とはとても思えない。思わず自身を顧み、だらしなく露わになった陰部に乾き切った白濁がべっとりこびりついている様を目にしたスクアーロは、指先でひっそりと涙を拭った。
「フン、くだらねえ書類処理に割く時間はねえ」
 皮張りの執務椅子に深く身体を沈め、ザンザスがカラリとグラスを傾ける。
「それがボスさんのオシゴトってもんだがなぁ!」
 と声高に叫び返してから、スクアーロはふと男の指先に目を留め、軽く目を見開いた。
「…珍しいな」
 思わず、といったふうに零れた呟きを、ゆらりと立ち昇る淡やかな紫煙が追う。
 宙に置かれたザンザスの右手には、フルボディのプレミアムシガーが握られていた。微かに煙った空気の味に、さっき夢うつつに見ていたのはこの煙かと気付く。
 たまに残り香を感じることがあったら吸っているのは知っていたが、こうして実際に喫む姿を目にする機会は余りなかった。
 火の付いたシガーがゆっくりと唇に運ばれ、絡んだ指先が鎖骨に陰影を落とす。吹き逃された残煙が千々にたゆたい、窓辺の薄闇を白く染め上げる。
 一連の仕草が嫌味なくらいに似合い過ぎていて、スクアーロは腹が立っていたのも忘れ陶然とザンザスを見上げた。
 だが、ふわりと鼻腔を掠めた芳醇な香りに「ん?」と首を捻る。もう一度くんと鼻をうごめかすと、やはり香りに違和感を覚えた。
 体力が落ちることを嫌い、スクアーロ自身は煙草を吸わない。そのせいか、こと煙草に関しては人一倍敏感な嗅覚が更に研ぎ澄まされるらしく、ザンザスが朝知らぬ間に吸っていても夜寝台に入ればその銘柄まで言い当てることが出来た。眼で探すより早く香りで分かるから、わざわざ市街まで買いに行かされたこともある。だから男の好む銘柄は全て把握しているつもりだったが、今日嗅いだ香りは初めてのものだ。
「煙草変えたのかぁ?」
 崩れそうになる膝を意地と根性で引き伸ばし、剥ぎ取られて床に散らばっていた服をのそのそと身に着ける。
 あ?と無愛想に、でも一応返事をしてくれたザンザスは、しばらく何のことか思い当たらなかったようだ。
「今頃か。いつの話をしてやがる」
「いつだ?」
「てめーが前々回オレの許しもなく飛び出したまま、ひと月も遊び呆けてやがった時だ」
「…26日間だろぉ。それに遊びじゃねぇ、3分の2は任務だ」
 つまり残り3分の1は100番勝負に費やしていたわけだが、それも遊びなどではないときっぱり言い返すには状況があまり宜しくない。悔しげに唇を噛むだけにとどめて、スクアーロはばさりと上着を羽織った。
 取れかけたフックまでしっかり掛けて立ち上がると、天井に溜まった濃厚な香りがいっそう強く、ねっとりと肌を包んだ。
 馴染みのない香り、名も知らぬシガー。
 それがあの男の指にあるというのは、なんとも奇妙な気分だ。
 奇妙、と何故思うのか分からない。だが、そう感じる筋合いなどないと、それだけはきっと確かだ。
 不味い物でも飲み込んだような顔をして、スクアーロはう゛ー…と低く唸った。
「なんだ、その顔は」
 それが反抗的な態度に見えたのか、ザンザスがぐっと眉間の皺を深くする。深く溜息を吐きながら緩く首を振って、スクアーロは机の反対側から身を乗り出した。
「べつに。なんもねぇ」
 言いつつ、男の手から吸いかけのシガーを奪い取る。
「おい」
 珍しく少し驚いたようなザンザスの声を聞きながら、スクアーロは掴み上げたそれを唇に咥えた。
 慣れぬせいで加減が分からず、すうっと深く息を吸い込み、大部分の煙を肺まで吸い込んでしまう。強烈な香りが気道を焼き、不覚にも思い切り噎せた。
「げほげほっ!ごほ…っ、う゛お…キッ、つ…」
「当然だ、ドカスが」
 呆れたように言ったザンザスが、返せとばかりに手を差し出してくる。まだ咳き込みながら涙に滲んだ瞳でそれを見つめ、スクアーロはふと視界に入ったペーパーウェイトを手に取った。
「てめー何する…」
 つもりだ、とザンザスに最後まで言わせず、スクアーロはクリスタル製の凝った意匠が美しいペーパーウェイトに、ぎゅっとシガーの先を押し付けた。
「てめー…」
 無惨に先の潰れたお気に入りのシガーを見て、ザンザスが冥府の門番さえ射殺しそうな凶悪な眼差しで睨み返してくる。それに知らぬふりを決め込み、無知ゆえの愚かさを装ってスクアーロは更にぐりぐりと先端を押し潰してやった。
「これでいいんだろぉ?」
 酒も煙草も過ぎるのはよくねぇからな、と付け足したのはわざとだ。最近スクアーロが留守にするたび増える酒量を、ルッスーリアから怒りに触れない丁寧さとしつこさでやんわり窘められているのを知っている。
 案の定渋く顔を顰めたザンザスに、スクアーロはしてやったりと内心でほくそ笑んだ。
 煙草より酒を好み、バーボンよりウイスキーを好む。肉の味には人一倍うるさくて、特に焼き加減には専用のシェフまでいるくらいだ。
 そして、今は自分の知らない煙草を喫んでいる。
「これでいいんだよなぁ」
 自身に言い聞かせるように呟いて、スクアーロは笑った。てめーなに笑ってやがる、とグラスが飛んできたのはご愛嬌だ。仕方ないから笑って受けてやる、今日だけは。


 変わらなかった8年に比べれば、変わっていく3週間のどれだけ尊いことか。
 もう以前とは違ってしまった時の流れは、今もここで確かに、未来を刻んでいる。


Fine.


あいり様へ捧げますw
ありがとうございました!


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あきゅろす。
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