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受験生、電波に遭遇す。
 ゆらゆらと歩道を漂いながら、老婆はため息をついた。

 困った、これは困ったわ、呟いてみたところで、誰かが答えてくれるわけではないのに、つい口に出てしまう。

 だが、次の瞬間、返事が聞こえた。

「どうしたの」

 言葉づかいこそ優しくはなかったが、表情に柔らかさのある黒い少女が老婆を見つめながら立っていた。



 道を歩いていたら、奇妙な現象にばかり遭遇した。

鎖に繋がれている犬にキスをして消えた男、カタコトの日本語を繰り返すカラス。

「チキュウハスデニシンリャクサレテイル」

 ありがたいお言葉に、俺はイヤホンのボリュームを上げる。

「チキュウハスデニシンリャクサレテイル」

 カラスならかぁかぁと鳴けよと、内心で毒づく。電波系発言はラノベのヒロインにしか許されていない。

だが、発言の中身は魅力的なものがある。既に地球は侵略されていて、空から正体不明の物体が次々と降ってきて人類を滅ぼす。

悪くない、何もかも判断がつかないぐらい破壊してくれるのなら。

学校も口うるさい家族も、訳知り顔の担任も、偉そうな塾の講師たちも、成績表を見せびらかしてくる馬鹿たちも、みんな壊してくれるのなら、俺は宇宙人になってもいい。今を逃れることだけに全力を使いたい。

 今日もまっすぐ帰宅することをせずに、通学路にある喫茶店に俺は足早に入店した。知り合いに見られたら寄り道がどうのだの、塾はどうしただの、うるさい。

俺がどこで何をしようと、俺が今の怠惰のせいでどうなっても関係ない他人がやかましくて嫌になる。

親切な気持ちなんか少しもないくせに。

「何にします?」

 話しかけてきたのは、亜麻色の髪をした長身の男だ。最近、よく見かけるようになった。

美人の女性店員が一人で隣の花屋とかけもちしていたが、さすがに無理があったのだろう。バイトを雇ったようだ。

静かな店の雰囲気に合わない奴だったらうざいなと考えていたのだが、この男は割と真面目な性格らしく、無駄口を叩かないので俺は安心した。

手際はまだまだいいとは言えないが、愛想がいいので問題ない。

 問題があるとすれば、この喫茶店のシンボルみたいになっているカウンター席の隅に座る真黒な少女だろう。

(今日も黒いな)

 いつも全身真っ黒な服を着て、何も面白いことなど世界にはないとでも言いたげな顔で読書している。言葉交わしたことはない。

だが、来店するたびにいるので俺は顔を完全に覚えてしまった。

「カフェオレで」

 注文を終えると、俺は耳栓代わりにしていたイヤホンを外す。この店では必要ないからだ。

学校では、どいつもこいつも勉強の話しかしないから、うっとうしくて耳栓をしている。授業中もイヤホンをしたまま睡眠をとることもある。

周囲からは余裕があるように見えるかもしれないが、そんなものはない。

目前に迫った受験のせいで、毎日我が家は大騒ぎしている。志望する大学のランクに見合う成績を、俺がまだ出せないでいるからだ。

 母親は塾を信奉しているし、父親は顔を合わせる度に「成績は上がったか?」と聞いてくるし(きっと他の言葉は忘れてしまったに違いない)、姉は両親からお小遣いを貰ったらしく、やる気のない俺に猫なで声で話しかけてきて勉強を教えようとする。

大学に入る前は優等生スタイルで冴えない服装をしていたのに、大学に入学してからはすっかり人が変わって派手に遊び歩いている。要するに大学デビューしたわけだ。

酒臭い息で笑いかけてくる奴に教わることなんて、ひとつもない。だから俺は姉を無視して部屋に閉じこもる。

(あのカラスが言っていたみたいに侵略されちまえばいいのにな。そうしたら受験なんて言っていられなくなるのに)

「あれぇ?実くん、いらっしゃい」

 カウンタ―の奥から美人の店員、七海さんが出てきて笑顔を見せてくれる。俺はハッとして会釈をした。俺がこの店に通う理由は七海さんに会うためでもある。

 後ろで束ねた髪を払いのける仕草がまた様になっている。さくらんぼ色の形の良い唇は魅力的で、クラスの女子にはない色気が漂っていて俺は舞いあがってしまいそうになるぐらい、ドキドキしてしまう。

「最近よく来てくれるのね、ありがとう」

「いえ、どうせ暇ですから」

 男の方が反応する。

「君、Y高校だよね?そろそろ試験があるんじゃない?僕の弟もY高校なんだ」

 静かな男だと思っていたのに、余計な発言をされて俺は内心で舌打ちした。なんだ、こいつも世間の口うるさい他人どもと同じ部類か。

 確かにあと一週間後に実力テストがある。だけど俺には関係ない。

どうせ成績は上がらないし、テストに対する意欲も湧かない。別にテストだけが人生じゃないのだし、俺は就職してもいいと思っているのだ。

どうせ、受験なんか……。

「ええ、まあ。でも試験とか受験とか正直、面倒で。受験なんて所詮、通過儀礼みたいなもんだし、志望する大学に落ちたら落ちたで、他の大学はいくらでもあるし。志望校とかこだわるのは親だけなんで。そういうのにこだわるのって馬鹿みたいだし」

 我ながら馬鹿息子の典型的な台詞だ。さぞ困った顔をされるだろうと思って顔を上げると、七海さんは笑顔だった。

「実くん、はっきりしているのね。男の子はそうでなくっちゃね」

「は、はい」

 俺のふてくされた発言を丸々受け止めて、七海さんはふふっと笑ってくれた。何だかホッとして俺はカフェオレを口にした。

「くっだらない」

 くの部分に力をいれて声がした。黒い塊が虚ろな視線を宙に投げている。

「何をぐたぐだと言い訳しているの?受験が怖いから、この店に避難しているって言えば?勉強しても無駄になるかもしれない、結果が出ないとが怖いって思っているのでしょ」

「はあ?何だよ、あんた」

「く、黒猫ちゃん」

 新入りの男が驚いて間に入って来る。黒猫なんて変な名前だ。それともあだ名だろうか。どっちにせよ、こいつもカタコトのカラスと同じぐらいの電波系だ。

「俺の気持ちを勝手に想像して分かったような台詞を言うなよ。あんた、俺の名前も知らないくせに」

「実っていうのでしょ。今、知ったわ」

 つんと澄ました表情が見惚れそうになるぐらい、整った顔立ちが俺を正視してくる。横顔だけだから気がつかなかったが、この不気味な黒い少女は驚くほどに綺麗な顔をしていた。

「俺は受験なんかどうでもいいんだ。就職する手もあるし、合格とか不合格とか、縛られたくないんだよ」

「言えば?」

「はあ?」

 黒い髪がさらりと揺れる。まるで風が通り抜けたみたいに。

「口やかましい他人や家族や、あんた自身によ。言えばいいじゃない。受験が怖いって。不合格になったら自分はどうなるのって」

 俺がもし、落ちたら両親は俺に愛想を尽かすかもしれない。塾仲間に笑われるかもしれない。担任に嫌な顔をされるかもしれない。志望する大学の次に受験するとなれば、後期試験になって間に合うかどうか分からない。

「俺は」

 それだけ口にすると、あとは言葉が続かない。悔しいほどに目の前にいる少女の言った通りだった。

 俺は怖い。失敗したくない。今までの努力が無駄になるなんて考えたくない。誰も失望させたくない。でも、応える自信がない。

足元が崩れ落ちていくのが見える。虚勢の城に閉じこもっていた俺は。武器すら持たずに戦場へ引きずり出される。

「不合格になって死ぬわけじゃあるまいし。あんたもさっき言っていたじゃない。受験は通過儀礼みたいなものだって。それが答えよ。受験という試練に打ち勝つ精神を養うために受験はあるのよ」

「まあ、僕も一浪したけど生きているからね」

 ははっと軽い調子で男が笑う。なんだ、こいつ落ちたことあるのかよ。

「一浪して家族に怒られたんじゃねえの?」

「いいや、次は合格できる、努力は無駄にはならないって言われたよ」

「あんたの両親、理解あるな。俺の家族は絶対にそんなこと言わないぜ」

 俺の親は激怒するに違いない。姉は俺を馬鹿にするだろう。

「親のために受験するんじゃなくて、自分の将来のために自分で受験する道を選んだからね。だから、たとえ親にどんなこと言われても驚きはしないなあ」

 爆弾発言をした黒い少女は、涼しい顔でミルクティーを飲んでいる。甘い香りが鼻をくすぐる。

「自分のため、か。確かに自分以外の他人のために、ここまで面倒な努力は出来ないな」

 ため息をついて、俺は背伸びをした。自分のため以外にこんなに辛い努力など出来るはずがない。

「ごちそうさま」

 俺は代金を七海さんに渡して、家路に着いた。

いつもより遅い時間に帰宅した俺を家族が出迎える。塾は?来週のテストは?それぞれが俺を打ちのめす武器を構えている。

家族が並ぶリビングで俺は口を開く。

「俺、本当は女になりたいんだよね」

 それだけ言い捨てると二階の自室へ避難した。すると下から割れんばかりの大声が飛び交う。完全に混乱した家族たちが大騒ぎしている様子を聞きながら、俺は腹を抱えて笑った。

ずっと言えなかったこと、それは冗談だ。何を言ってもまともに受け取られて、全部勉強への影響を心配されて、息苦しくて。だから何も話すまいと俺は決めていた。

 とんでもない冗談に惑わされて混乱する家族は、俺にとって最高のストレス発散になった。あまりにも面白いから、明日あの店に行って七海さんとあの男に報告しよう。黒い少女にはお情けで聞かせてやる。

 胸のあたりがスッとした俺は、ようやく机に向かう気力が湧いてきて立ち上がった。



「これでいいの?」

 黒猫は髪を払いのけて、隣に座る老婆に声をかける。

「ええ、ありがとう。あの子がずっと悩んでいるのを見ていて、何とかしてあげたくてね。でもほら、私、幽霊でしょ?受験なんて人生のおまけみたないものよ、と教えてあげたくても、ねえ?」

 亜麻色の髪の男・山戯は額に汗を浮かべながら、奇妙な会話に耳を澄ましている。霊感の強い彼には、実の横に座っていた老婆がはっきり見えていた。今は少女の横で、にこにことしている姿が見えている。

「一年中勉強漬けになって、合否の有無で人生が決まるなんて思い込まされているのでは、疲れるのも当たり前ね。本当は何も決まりはしないのに」

「大学に入ってからの方が大切なのよね。もしくは就職してからとか。ふふっ、こんな話、未来ある子どもの前で話したらがっかりさせちゃうかしら」

 おちゃめな老婆は明るい笑みを浮かべる。

「これで貴方も安心して守護霊に戻れるでしょ?心配のしすぎで霊体がさ迷い始めていたけれど、もう安定したみたいね」

「ありがとう、もう大丈夫よ。これで実を静かに見守ってあげられるわ」

 話している間に老婆の体は透明になり始め、静かに消えていった。

「今のは幽霊なのかい?」

「正確には違うわ。幽霊ではなく、実という少年の守護霊よ。先祖何代目の人かは知らないけれどね。とりあえず、私の仕事は終わったわ」

 ミルクティーを飲むと、黒猫は小さく息を吐いた。

「あなた一浪していたのね」

「うん、まあ。僕みたいな奴の話を聞いたら、実くん楽になるかなって思ったんだ。なんだ、落ちても人生変わらないやって」

「そう」

 黒猫は立ち上がり、代金をカウンターに置いた。

「あなたって」

「え?」

「何でもない」

 くるりと背を向けて、黒猫は店を出た。

今は言わなくてもいいわ、いつかまたそう思ったら、言えばいい。

(優しいのね)なんて。

 頬が熱くなってきた黒猫は、うつむいて歩道を歩き始めた。


               

                   <了>

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9月『言いたかったこと』

藤森 凛



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