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しらひめ
 あなたはどう考えていらっしゃるのかしら。

彼女の声が、紫煙の向こうで揺れている。着物の裾がゆらゆらと、夢のように映る。

「日本は変わったと思えて?」

 戦後まもなくの日本で、女性がそんな発言をするのは考えられない。首根っこを捕まえられて、路上に放り投げられても仕方ない。

だが、彼女は平気な様子で、鼻筋が整った横顔をツンと澄ましている。何ものも彼女を咎めることはできない。

「分からない。僕には分からないのだ。君も知っているだろうが、僕は戦場から逃げてきた男だ。馬鹿にも生き残った、間抜けな奴だから何も分からない」

 日焼けした右手に残る火傷だけが、僕が戦った証拠だと考えると情けなくなる。

ああ、隣を歩いて共に戦場へ向かったあいつは死んだ。地雷を踏んで、花火みたいになっちまった。

ああ、俺たち兵隊を怒鳴りつけて士気をあげていた上官は伝染病にやられた。

ああ、ああ、みんな死んでしまった。

 気がつくと、驚くほど白く冷たい手が僕の手を押さえてくれいた。自分で気づかない内に、僕の手はひどく震えていたようだ。

「安心なさって、あなた。ここはもう日本なの。外国じゃあないわ。誰もあなたを追いかけたり、知らない言葉をかけたり、そんな真似なんかしない」

 そうだ、ここは僕の産まれた国。異国の土を踏んでいるわけではない。

「ねえ、戦争はやっと終わったけど、お国はまだまだ大変じゃなくて?」

 艶やかな赤い布に蝶が舞う、煌びやかな着物をまとった彼女が口にしてみても、説得力はなかった。僕は思わず苦笑してしまう。

「ああ、まだ大変なものだよ。何やら不可思議な事件が連続して鉄道に起こったり、大きな地震が発生したりしている。混乱は収まるどころか増大していく一方さ」

「不思議な事件よねえ。あの三つの事件には答えが出ないかもしれないわねえ」

 事実、彼女が考えた通り、この三つの鉄道事件に答えは出なかった。
しかし、その時の僕らが知るはずもないことだった。

「それから、何て言えばいいのかしら?あなたにこんな話をしたら嫌がられるかもしれないけど、景気ってやつなのだけれど。喰えない奴だわ。人の生き血を啜って成長していくようで、私は好きになれないわ、到底ね」

 彼女の口から紫煙が漏れる。苦々しいため息と、甘ったるい紫煙の香りが綯い交ぜになって流れていく。

「でも、僕らは自衛するために金を稼がなくてはいけない。そのために、誰かの屍の上を平気な顔して歩いて行かなくてはならないのだ。綺麗で卑怯な言い方をすれば、日本の未来を担う次世代の子どもたちのためにね。敗れた大人ができる償いなど、限られている。いや、こんなことは口にしてはいけないね」

 酒が回りすぎたのか。何という失言をしたのだろう。僕は顔が熱くなった。

今の発言は、絶対に誰にも聞かれたくはなかった。腰ぬけの卑怯者らしい、愚かな台詞だ。

僕の傍らで死んでいった戦友たちは、揃って僕に侮蔑の視線を投げるだろう。

恥ずかしくなって頭を抱え込むと、彼女の冷たくて滑らかな手のひらが頭を撫でてくれた。

「いいの、いいのよ。ここには私とあなたしかいないわ。誰も聞いてなんかないのよ。あなたは生き残ったの、今はそれでいいじゃない」

 そうだ、今、僕は生きている。今、何と重い響きだろう。永遠に失った者たちがいるというのに、僕は今という時を生きている。

「あっちこっちで殺し合いをして、ねえ、私たちは生きているのね。景気っていけすかない奴がそれで成長して、私たちに圧し掛かってくる。私は喜べやしないわ、絶対によ」

「僕だって、いや、僕は何も言えない。この世界に起きる全てに何も言えないよ。あんなひどい事件が海で起きたっていうのに、僕らは何も出来なかったのだからね。あの海の事件に巻き込まれた彼の遺言を聞いて、僕は胸がしめつけられたったいうのに運動に参加しようとしないのだから、臆病者さ」

「そうね、あの人、死んでしまったのよね。可哀想に。私、難しいことは嫌い、大嫌いよ。難しいことを進め過ぎて、あんな化け物を造り出してしまって、私たちが犠牲になったのだもの。もっと簡単なことを考えたらいいわ」

「たとえば?」

「あなたの未来よ。そうね、まずその古臭い服は脱いで、髭も剃って、髪を清潔に撫でつけるの。それから煙草を買って、甘い汁が滴る果物を齧りながら、街を歩くの。ねえ、きっと世界が変わって見えるわ、必ず」

 目を輝かせて、彼女は嬉しそうに話す。僕は戦後から着たきりの服を眺めた。大分くたびれて、そろそろ身ごろが分解してしまいそうだ。

「うんと素敵な服を着るの。うんと美味しいものを食べるのよ。あなたの瞳に映るもの全てに色が戻るわ、私には分かるの」

 彼女の手のひらが僕の頬に触れる。柔らかい感触が伝わってくるが、どこか緊張感のある動きだった。

「もう、忘れなさいな。私のことも、過去のことも」

 着物の裾から赤い下駄が見えて、カロコロと音を立てて扉へ歩いていく。

「今日で店じまいよ、お帰りなさい、あなたの家に」

 僕は立ちあがって彼女の横に立った。

 嫌だとも、分かったとも言えずに、じっと彼女の澄ました横顔をだけ見つめていた。

「悪い夢は終わったわ。ねえ、これからもっと大変な夢を見ることになるだろうけれど、立ち止まるよりはずっと、まともだと思うの。苦しくても哀しくても、今を生きているって、すごく素敵なことよ」

 扉が開き、路上にいたルンペンが驚いて走り去っていく。土くれだらけの道に、寂れた店が並んでいる。

「さようなら」

 氷のように透き通るような美しさをたたえた笑顔が、僕の思い出の中で弾ける。

 手を伸ばして彼女を引きとめたかったが、そうするには僕は年を取り過ぎてしまった。背中を押されるようにして、僕はぼろぼろの半壊した建物から出た。

背後を振り返れば、空襲で焼け落ちた彼女が働いていた店がある。生きて帰れたら、彼女と暮そうと決めていた。彼女も待っていてくれると信じていた。

彼女は確かに待っていてくれた。そして、再会と同時に僕は別れを知った。

艶やかな着物が誰よりも似合う美しい彼女は、炎に呑まれて空に還った。間抜けな僕は、何も知らずに酒を持って店を訪れたのだ。

 空からは白い雪が落ちてくる。穢れを知らない無垢な光が疲れ切った大地に降り注いでいく。

いっそのこと何もかも覆い尽くしてくれないだろうか。

僕も彼女も、傷ついた世界の全てを一瞬でもいいから隠してはくれないだろうか。


 白い夢の中で、僕らは何も恐れず争わずに眠るのだ。



<了>

企画小説青人草様:参加作品

作者:藤森 凛

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