静寂の青いブーケ
最近ね、妙にブーケが売れるのよ。
マンションの一階にある花屋兼喫茶店の店主、七先 七海は首をかしげてみせた。
若い時に離婚して、父親が管理しているこのマンションの一階部分に店を構えている女性で、年齢不詳である。
ただ、話し方や仕草で自分よりも年上であると推測している。
長い髪を後ろで束ねているだけで、洒落っ気はあまりないのだが、彼女は生まれながらに美貌というアクセサリーをつけているので必要ないのかもしれない。
「ね、黒猫ちゃん。不気味だと思わない?全部、結婚式用のブーケなのよ。妙でしょ」
七海さんは私を黒猫と呼ぶ。黒い髪に黒い瞳、黒い服ばかりの私の印象から付けたあだ名だと思われる。
別に私は黒が好きなわけではない。仕方なしに黒を身にまとっているだけなのだ。
「ただ、単に結婚式が多いだけでは?」
待っていましたと言わんばかりに、カウンターの向こうから七海さんが身体を乗り出してくる。
手にしていたコーヒーカップに振動が伝わって、茶色の波が揺れた。
「それがね、ブーケを注文するお客さんは同じ人なの!ほら、この売上表を見てちょうだい、この赤線で囲んでいる人がいつも同じブーケを買っていくの」
確かに同じ名前の女性が何回もリストに登場している。
朝食のハムエッグをスプーンでつつきながら、七海さんを見た。
いつもは全体的に木目調で作られている店の雰囲気にピタリとはまっているのに、今は目がぎらぎらとしていて、癒しを提供することをモットーとしている店に相応しくない迫力が出ている。
スプーンでトーストを崩して口に運んで、私は目をそらした。嫌な予感がした。
「黒猫ちゃん、この謎を解決してくれたら今月のツケをタダにしてあげる。どう?」
家事をすることが面倒な私は、よくこの喫茶店で食事をする。
家賃を払う時と一緒に食事の代金を払うようにしているのだが、大学生である私には大きな出費となっている。
どうやら、彼女は私の財布事情などお見通しのようだ。
頭をかいて、スプーンに残った卵を口に入れて食事を終えると私は仕方なしに小さく頷いて見せた。
「ありがとう、黒猫ちゃん!気になって気になってお店を放り出しそうだったのよ。それにしても、黒猫ちゃんは何でもスプーンで食べるのね。器用だわ」
感心したように七海さんは何度も首をふっている。
私は何でもスプーンで食べるのだ。これも好きでしているわけではないが、説明する必要もないものだ。
店の奥でベルが鳴り、喫茶店と衝立ひとつで繋がっている花屋に来客があったことを告げた。
「いらっしゃいませ!」
七海さんがカウンターを抜けて、足早に花屋に向かう。
ふと、クルリと振り返って小さく私を手招きした。表情が真剣になっている。
私はチラリと赤い線で囲まれた名前を確認した。
「はい、ご注文のブーケですね。こちらになります」
七海さんが取り出したのは青い花に青いリボンがついているブーケだった。
薄布のような白いラッピングが結婚式を連想させる。
黒い髪をペタリと張りつかせた、ダークスーツ姿の女が虚ろな目で、財布からお金を取り出している。
花の様子には興味がないとでも言うように、淡々としている。
普通なら感想を言うものだろう。
だが、売上表によると女は同じブーケを二十回も受け取っているから、もはや見慣れているようだ。
大きな植木の陰に潜みながら、私は女を観察した。
三十代ぐらいだろうか、虚ろな瞳をしているせいで顔の美醜の判断が難しい。
「ありがとうございました!」
元気な挨拶など聞こえていないかのように、女はふらりと店から出ていく。少し間をあけて、私は後に続く。
夢遊病患者のように、危ない足取りでダークスーツの女は歩いていく。
さ迷っているという表現が似合う姿だ。
一定の間隔をあけて尾行しているが、用心しなくても女が私に気がつく可能性はないような気がした。
まるで何も見えていないようで、女の足取りは段々と覚束なくなっていく。
あれだけふらふらと歩いているのに、誰にもぶつからないのは不思議だった。
女がピタッと立ち止まる。気がつかれたかと思い、私は慌てて狭い路地に身を潜める。
だが女は振り返らず、その場にしゃがみこんだ。
ガードレールの下にブーケを置いて、手を合わせている。
確か、二十代の女性が車に轢かれて死亡した事故があった現場だ。
ざわざわと肌が粟立ち、黒い服の下にある皮膚に赤い線が走るのを感じた。
まくってみると左腕に蚯蚓腫れのような痕が浮かんでいる。
七海さんめ、分かっていて私に頼んだんだな。
良いように使われたことに気がつき、私は小さく舌打ちをした。
路地から身体を出し、まだしゃがみこんでいる女の背後に立った。正確には正面にいる人物と向かい合った。
空中に白いウェンディングドレスを身にまとった若い女性が浮いている。
悲しそうな表情で、手を合わせている女を見つめている。
「お姉ちゃん、もういいのよ。もういいの。あたし、幸せだったから。もうやめて、こんなに辛い顔をしているお姉ちゃんをもう見ていられないよ、あたし」
ブーケは妹への手向け。妹が泣きながら訴えている言葉は決して姉には届かない。
ふたりの間には大きな河が流れていて越えることは決して出来ない。
私は右腕をまくり、そこにある大きな刺青とも傷跡とも呼べる痣にそっと唇をあてた。
この痣は複雑な形をしており、曼荼羅のように様々な図が展開している。
この腕を動かすと皮膚が引き攣るので、私はスプーンで食事をするしかない。
箸を使おうとすると負担が大きくなって、非常に痛むのだ。
「あんたはこの人の妹か?」
腕に口を寄せたまま放すと、ドレス姿の女性は驚いたようで少し上へ浮かんだ。
「私の声が聞こえるの?私の姿が見えるの?」
「好きで見ているんじゃない」
つまらない質問、幾度となく繰り返された質問に私はうんざりした。私の態度にお構いなしに女性は話し出す。
「お願い、お姉ちゃんに伝えて!もうブーケを届けてくれなくてもいいのよって。このままじゃお姉ちゃん、駄目になっちゃう!約束したブーケを私はもうたくさん受け取ったよ、毎日毎日持って来てくれたブーケを私は持っているから」
だからお願い――……優しい笑顔のお姉ちゃんに戻って……。
透明の涙が死者の頬を流れていく。人は死ぬ。多くの人は無念を抱えて死ぬ。
死んだあとに化けて出て、無念を晴らすことが出来るのなら人は死を恐れなくなるだろう。
しかし死んで化けて出ることは出来ても、人は現実に干渉出来ないもどかしさを痛感するだけで、無念を晴らすことなど出来ない。
だから、私のような人間が暗闇から生まれるように世界に出現するのだろう。
黒い服を着るのは自分が背負い込んだ呪いを忘れないためだ。
「ちょっといいですか?」
ダークスーツの女に声をかけると、虚ろな瞳が返って来た。
「ブーケトスの約束、覚えていますよね」
「どうして、どうしてそのこと……」
女の掠れた声が痛々しい。
「妹さんがあなたに投げると約束したブーケ、受け取ってあげてください」
「あ、あなたふざけているの?妹は死んだの!もうブーケを渡してあげることも、あの子から受け取ることも出来ないのよ!」
ヒステリックな叫びを上げながら、女が私の肩を叩く。
通行人が気味悪そうに振り返っていくが、声をかけてくる勇気のある者はいない。
奇妙な女たちに見えているのだろう。
私は黙って空を指差した。宗教画のように。
涙で顔がぐしゃぐしゃになった女が導かれるように上を向いた。
青い光が空から降り注いでくる。
正体を見極める間もなく次から次へと、青い花が天空から降りてきた。
青いリボンが空にたなびきながら、優しく音もなく舞っている。
あっという間に私と女は、青い花のブーケに埋もれてしまった。
まるで枯れていないブーケから、清々しい花の香りが私たちを包み込む。
交差点のある道路とは思えないほどの静寂が辺りに満ちていく。
通行人の声が上がったのは、しばらく経ってからだった。
声が出ないほどに神秘的な光景に人々は脳神経が痺れたように立ち尽くしていたのだ。
「ブーケトスなのね、そうなのね」
女が泣きながらブーケを抱きしめる。寄り添うようにドレスの女性が女の頭を撫でている。
にこりと笑って、女性は空へ空へと浮かんでいく。
手には一つの青いブーケを握りしめながら。
空中からブーケが落ちてきた事件は、昔から不思議とされているおたまじゃくしが空から落ちてくる事件と同じように未解決の謎となった。
「黒猫ちゃん、やっぱりブーケトスって女の憧れなのね。黒猫ちゃんも女の子だから憧れるでしょ」
茜色に染まった店内の中で、ぽつりと七海さんが呟いた。
「空からのブーケトスなんて素敵だわ、ねえ黒猫ちゃん」
ミルクティーを冷ますふりをして私は返事をしなかった。
泣きながらブーケを抱きしめた女の顔が脳裏に浮かんでいた。
泣きながら笑っている顔に、少しだけ女が立ち直る兆しがあったように感じたのは私の気のせいだろうか。
茜色に映える青のブーケを抱えて女は何を思うのだろう。
心に浮かぶ切なさに似た感情を、私はミルクティーで押し込んだ。
キウイベア様提出
・6月お題
『茜』『静寂』『ブーケ』に参加させて頂きました。
ありがとうございました!
藤森 凛
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