「・・・やぁ。」
「それ」はゆったりと振り向いた。
「それ」がきょうやだ、と認識するまでには、少し時間が必要だった。
羽織っている深い紺色のキモノは、夜に溶けて漆黒と見紛うばかり。そこからにょきっと伸びた細く、白い、手足。
こちらを振り向いた顔に張り付いた、薄い笑みの形をした唇だけ、赤い。
酷く、美しいいきもの。
「どうしたんだよ、こんなところで。」
草壁に案内されたのは、神社の…何と呼ぶのだろうか、小さな建物の、外廊下とでも呼べばいいのか?建物の外をぐるりと巡る板張りの空間、だった。
そこで恭弥はひとり、空を見ていた。
空には雲が薄くかかり、星は殆ど見えないと言うのに。ただ、気味の悪い月だけが大きくて、お世辞にも空を見上げるのに良い日とは言えない。
「あなたも座りなよ。」
俺の問いには答えないで、恭弥は薄笑いを浮かべて手招きをした。
その手には、小さな盃。
恭弥の隣まで歩み寄って見ると、床の上に酒の器とおぼしき小さな陶器の瓶が数本、転がっていた。
「呑んでたのか?」
「うん。今日は、月が綺麗だからね。」
恭弥は俺から視線を逸らして、空を見上げる。
確かに空には月ばかりが目立つが、どうもそれを綺麗だと思う感性を、俺は持ち合わせていないらしい。
「座るの、座らないの。」
「・・・座ります。」
少し不機嫌そうな声に促されて、俺は恭弥の隣にどかりと腰を下ろした。
すると、にょきっと恭弥の腕が伸びてきて、手に酒瓶を握らされる。
「注いで。」
そして、続いて盃を持った恭弥の手が伸びてきた。
「お前なぁ・・・」
そこは、あなたも呑む?って言うところだろ、と苦笑しながら恭弥の盃を満たしてやる。
「あなたが来るなんて聞いてないよ。」
あー、つまりそれは、酒も盃も一人分しかありませんよ、ということか。
まあ、それならそれで良いんだけれど。
「少しくらいわけてくれよ。」
「盃が無いよ。」
そう言いながら恭弥が酒を口に含む。
その瞬間を狙って、肩を抱き寄せた。
日本酒のきついアルコールが二人の唇の間で気化して、一瞬で酔いが回るような気がする。
少しだけ不快そうに恭弥が俺の胸を押すけれど、無視して舌を絡めた。
すると直ぐにとろとろに溶けた舌がキスに応じる。
少し、酔っているようだ。
そのままとさりと軽い音を立てて、板張りの床へと細いからだを押し倒す。
「ちょっと。何か用事があって来たんじゃないの。」
「別に、恭弥に会いたくて来ただけ。」
「僕は仕事があるんだけど。」
「こんなトコで酒呑んでる暇はあるんだろ?」
酒の所為なのかどうなのか、赤くなった顔で抵抗しようとする恭弥を、俺がくすくす笑って丸め込む。
とろんと溶けた瞳が少しだけ困ったように細まり、けれどすぐに、降参、と言わんばかりに瞼が下りる。
「誰かに見られたらどうするの・・・」
「ここ、風紀財団の私有地・・・なんだろ?」
それくらい知っている。
草壁には人払いを頼んでおいたから、こちらが出て行くまでは誰も入ってこない。
そう恭弥に伝えながら、やんわりと唇を合わせて啄むようなキスを繰り返す。
羽織った和服の襟をつい、と撫でてやると、ふぅ、と諦めの混じった、しかし何かを期待するような小さな溜息が聞こえる。
「月が--見てるよ。」