あんまり、月が綺麗だから。
「ねえ・・・約束、覚えてる?」
不意に紡がれた電話越しのその声が、なんだか酷く淋しそうに聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。
交わした約束なんて多すぎて・・・一瞬、言葉に詰まる。
「・・・もういいよ、じゃあね。」
すると、間髪入れずに電話は切れた。
がちゃん、という激しい音がしないのはただ、恭弥が使っているのが携帯だからで。
「・・・なあロマ、悪いけど先に帰っててくれねえか?」
コツコツと車の窓を叩き、運転席に座るロマーリオに告げると、フン、と呆れたような声で笑われた。
「言うと思ったぜ、ボス。安心しな、俺達の宿は取ってあるからよ。」
「・・・手際のいい部下を持って幸せだよ。」
「ハン、仕事より恋人優先なボスを持つと苦労するぜ。」
「ロマっ!」
厭味ったらしく笑うロマーリオに、しかし本当は感謝してもし足りない。こんな勝手な我が儘に付き合ってもらっている訳だから。
「ボスがジャッポーネに来てキョーヤの顔も見ないで帰るなんて、有り得ねえからな。」
「・・・恩に着るぜ。」
今回は急な来日で、時間も無かった。だから、すぐに帰るつもりだったんだが。自分の意志の弱さに自分で呆れながらも、ロマーリオに手を合わせる。
「事故るんじゃねえぞ、ボス!」
愛車の鍵をロマーリオから受取り、赤い車体に乗り込んだ。
恭弥の家まで、ここから飛ばせばせいぜい二十分。だが、その距離を往復して顔を見て、なんてしていればどんなに急いでも一時間はかかる。その程度の時間すら取れないくらい忙しい来日だったんだ。・・・本当は。ロマーリオの中でははなっから一泊の予定だったらしいが。
それが悔しいやら有り難いやら、複雑な思いに駆られながらアクセルを踏み込んだ。
程なくして、見慣れた路地に迷い込む。いつもの路肩に愛車を寄せて、車を下りた。
見覚えのあるベランダを見上げる。まだ起きているらしく、カーテンの隙間から薄明かりが漏れていた。
ポケットから携帯を取り出すと、リダイヤルのボタンを押す。するとすぐに、不機嫌な声が応答した。・・・恭弥らしい。
「何、しつこい。ムカつく。」
「いきなりそれかよ・・・」
酷ぇな、と苦笑していると、不機嫌ど真ん中な恭弥に電話を切られそうになり、慌てて口を開く。
「なあ・・・外、出られるか?」
「・・・どうして。」
「知ってるか、恭弥。今夜の月は、すげぇ綺麗なんだぜ?」
短い沈黙があって、それからカラカラと小さな音がした。あの部屋の窓が開き、小さな人影が姿を現す。
薄い寝巻一枚で、片手には携帯をにぎりしめて、空を見ている。
つられて見上げると、黄色く大きな月が柔らかく雲の隙間から空を照らしているのが見えた。
「綺麗だね。」
耳元から声がする。
「恭弥の方が綺麗だぜ。」
ちょっと気障ったらしいかな、とは思うけど、でも心からそう思った。
月明かりに照らされたその横顔は、透き通るようで。
「馬鹿なこと言わないで。・・・あなたも今、イタリアで見てるの?」
無理矢理話題を変えようとする恭弥が可愛いくて、思わず吹出しそうになる。
だってそうだろう?
「・・・イタリアは今頃真っ昼間だぜ?」
「ちょっと待って、あなた今何処に――」
いつもなら絶対に忘れない、憎らしい二人の間の距離を忘れるくらいに慌てているのが可愛らしくて、もう少し見ていたいような衝動に駆られる。
けれど、手を延ばせば届きそうで。
「恭弥、下。」
俺の声に応えるようにこちらを向いた恭弥に、思いっきり手を降ってやる。それに気付いたのか、恭弥の表情がここから見ても解るくらいにはっきり変わる。
どうして、と口元が動くのが見えた。
「恭弥に会いたくなったから。」
「馬鹿じゃないの・・・」
ああ、我ながら馬鹿だと思う。だけどその言いようは無いだろう?と苦笑する。
「なぁ、外すげー寒いんだけど、入れてくれねえ?」
ちょっと大袈裟に両方の腕で自分の肩を抱きしめてみせる。
暗いから恭弥の微妙な表情はわからなかったけれど。
きっと呆れた顔でため息でもついていたんだろう。
仕方ないね、と電話越しに聞こえた声は少しだけ嬉しそうで。
なあ恭弥、恭弥も、会いたい、なんて少しは思ってくれていたのか?
自惚れかもしれないけど。
今行く、と告げて電話を切る。
おまえを抱きしめるまで、あと少し。