ディーノがイタリアへ帰ってから、一ヶ月が過ぎた。
時々メールや電話は来るけれど、次に日本に来る日程の話は聞いていない。
けれど彼は時々、何も言わないで来たり、するから。
草壁がこんな、無駄な気を回したりして、ケーキがひとつ、無駄になるんだ。
[ケーキがひとつ余るから]
「委員長、新しく開店した喫茶店から申請の書類です。」
商店街の風紀の管理も僕の仕事だから、新しく開店した店のチェックは欠かせない。草壁から受け取った書類にざっと目を通す。特に問題は無さそうだ。
「それから、イチゴのタルトとザッハトルテです。」
そう言って草壁が差し出したのは、その店自慢、らしいケーキが二つ。
それを置いて、草壁は無言で出て行く。
イチゴのタルトは僕の好み。
ザッハトルテは、きっと、ベタベタに甘いお菓子は好きでないくせに、僕に付き合ってケーキを食べる、あの人の為の。
……そろそろ現れる頃だから、ってこと、だろうか。
僕はなんとなくため息を吐いて、ザッハトルテを引き寄せる。
甘さを抑えたチョコレートの、ほろりとした苦味が舌に広がる。
二つあっても、無駄になるだけ、なのに。
「ヒバリ!ヒバリ!」
コツコツと窓が叩かれる音に顔を上げると、いつもの黄色い鳥が小さなくちばしでガラスをノックしていた。
窓を開けてやると、ぱたぱたと飛んで僕の肩で羽を休める。
「やあ、久しぶりだね。」
「ヒバリ!ゲンキ!!」
僕の肩でぴいちくお喋りをする小鳥に、タルトのクッキー生地を少し崩して差し出すと、嬉しそうに平らげる。
「ヒバリ!スキ!」
「……僕もだよ。」
肩の上の毛玉を指先で撫でながら、少し穏やかに呟く。
ふわりとした羽毛の感触が気持ち良い。
あのひとの金の髪のような、太陽の色の毛並みだ。
「ヒバリスキ!ディーノスキ!」
「ちょっと……何言い出すのさ……」
きっとこの子の頭の中はオウムみたいなもので、覚えてる単語を連鎖的に思い出しているだけ、なんだろうけれど。
好き、から、あのひとの名前、なんて、連想、するな。
「ディーノ、アイタイ!」
「黙れ……会いたくなんか、ないよ……」
いつも勝手に来て、勝手に居て、勝手に帰る、あのひとになんか。
黙れ、とタルトを大きめに千切って小さなくちばしに詰める。ふぎゅうと情けない声が聞こえた。
―みーどりたなーびくー…
次の瞬間聞こえたのは、野太い合唱。
反射的に、手が携帯を掴む。
ディスプレイには、やっぱり、あの人の名前。
少し躊躇ってから、通話ボタンを押す。
『よお恭弥、元気か?』
国際電話特有のノイズ混じりの、あのひとの声。
なんだかとても腹が立って、僕は一瞬言葉を失う。
「大した用もないのに…電話、して、くるなっ……!」
声が震える。
どうしてだろう、解らないけど。
聞きたいのは、いつ会えるか、それだけだよ。
『ごめんな……できるだけ早く、休み取るから……』
「来なくていい……会いたくない。」
あなたはいつも勝手に来て、勝手に居て、勝手に帰るんだ。
いつもひとりで残される、僕の気持ちも知らないで。
こんな思いをするくらいなら、会いたく、ない。
『どうしたんだよ恭弥……俺、なにかしたか?』
「あなたが来ないからっ……いつもケーキが余る……っ!」
『ケーキ……?』
「うるさい、知らない、もう来るな、馬鹿っ!」
ぷつ、と電話を切る。
携帯だから、受話器を叩きつけることもできない。
僕がどれだけ―――かなんて、あなたには解らない。
……この気持ちは何だ。
むしゃくしゃする。胸が苦しい。悔しい。息ができない。
――あなたが居ないからだ。
なぜあの人が居ないだけで、こんなに苦しくなるのか解らない。
「ヒバリ、サビシイ?」
ようやく口に詰め込まれたタルトを飲み込んで、小鳥はこくりと首を傾げた。
「寂しくなんか――」
寂しいなんて気持ちは知らない。
――もしかしたら、この気持ちが?
まさか。僕はそんなに弱い生き物じゃない。
けれどそれなら、この息苦しさは。
「ディーノの……ばか……」
自分の声が、思考のループを断ち切る。
本当は解ってるんだ。
どうすればいいか。
自分が、どうしたいか。
握りしめていた携帯を開く。
ボタンを幾つか操作して、メール画面を開いた。
打ち込んだのは、ただ一言。
――早く来い。