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恐怖コラム
腸チフスのメアリー
 メアリー・マロンという女性がいる。彼女はその生涯を賄い婦として過ごし、後年は離れ小島にある隔離病棟に収容されて死ぬまでそこを出ることはなかった。
 彼女はいったい、何をしたのだろう? 答えは「なにもしなかった」。
 ただ単に、胆嚢の中に腸チフスを持っていたのだ。

 1800年後期、ニューヨーク州である金持ち一家が次々と倒れた。激烈な腹痛と発疹、意識障害。それは腸チフスという病気の症状で、10人に1人は死亡し、体力のないものならば7割が死んでしまった。
 腸チフスは当時では死の病とされていた。
 その10年後、またしても腸チフスによる集団感染が起こった。ニューヨーク州、ニューイングランドと場所は様々であったが、ある共通点が判明した。

 メアリー・マロンという賄い婦を起用していたことであった。

 保健所や警察は彼女を捜した。犯人としてだけではない。なぜ彼女だけが感染しないのか……、彼らにはひとつの仮説があった。
 メアリーは腸チフスに感染しているが、発症しない体質である。それは奇跡といっても過言ではないものだった。

 彼女がたとえ元気だとしても、彼女の手が触れたものから普通の人は感染し、短い潜伏期間のあとに発症し、時には命を落としてしまう。彼女は生きる生物兵器といっても過言ではなかった。

 しかし当の彼女から言えば、それはたまらないことだった。自分は健康なのにあの腸チフスにかかっていると言われて警察に追われる。もしあなたがメアリーだったとしても、信じたくはないだろう。逃げ出したいだろう。
 当然、彼女は逃げ続けた。捕まっては脱走し、脱走しては隠れ住み。それをなんと20年続けた。

 少なくとも57人に感染させ、そのうち3人を間接的に彼女は殺害し……。

 人々は彼女に犬をけしかけ、新聞は彼女を悪魔のように罵り、彼女はついに1907年に政府に拘束される。
 そして政府は彼女の意思を無視して3年間隔離、監禁し、人体実験を行った。

 医者達は彼女を調べると「体を切って調べる」と命じた。
 しかし彼女は断固としてそれを拒否した。
「私は健康なのに、どうして体を切らなきゃならないの」という切実な訴えとともに。
 その訴えに対し、世論も割れた。メアリー擁護派はメアリーの手術をとめるべきと発言した。実際問題として、彼女はただ賄い婦として生活していただけで、罪になるようなことはひとつもしていなかったのだから。

 これにともない州は、彼女一人のための条例を作った。メアリーは一生涯賄い婦をしてはならないという、一見滑稽な条例であった。

 条例が出来た後、彼女は再び姿を消す。

 五年後、産婦人科病棟で医師と看護婦が集団感染を起こした事件を最後に、彼女は捕まり、完全にその身柄を拘束された。そして離れ小島の病院へと。
 彼女はそれから23年、出ることは叶わなかった……。

 彼女に対してはふたつの人物像が残されている。
 ひとつは「邪悪な感染源」、もうひとつは「不運な社会的被害者」である。あなたにとって、メアリーはどちらに当てはまるだろうか?
 彼女は人々が感染するのを間近に見ながらも賄い婦を数十年も続けた。これは彼女が邪悪な人物だったからである。
 しかし家事使用人は優遇されていて、彼女のような保菌者もニューヨークだけで100人はいたとされている。だとしたら被害者だ。

 あなたはメアリーをどう思うか。彼女は何もしなかった、ただ普通に生きていただけである。
 そしてもし、あなたがメアリーのような存在になってしまったら?


 ……晩年のメアリーの生活は静かなものであった。その後の人生を知る手掛かりは少ないが、病院内で看護師、介護人、研究室の技術補佐員等のの仕事をしていたことが記録に残っている。
 彼女はただ平凡な人間のように働き、一生を終えた。
 


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