878.雨の向こう側で
16
そんなエドワードを気にも止めず彼の両手を掬い取り。
その手には、刃物で切った事を物語る幾多にも及ぶ切り傷をなぞる様に血が固まっている。
「これは」
──とにかく治療が先決だ。
「来なさい」
掴んだ手を引き、リビングのソファーへと連れていくと、エドワードを座らせ、本棚の上から薬箱を取り出す。
「手を……」
ソファーで俯く彼の直ぐ横に腰を下ろすと、そう言葉にすると同時に彼の手を掴む。
すっかり萎縮した様子のエドワードの左手の傷を、消毒薬を染み込ませたコットンで丁寧に消毒していく。
「一体、何を作っていたんだ?」
手当てをしている内に平静を取り戻し、改めてエドワードに問う。
「シチュー」
彼は小さく呟き答える。
「シチュー?」
聞き返すと、ただコクッと頷いた。
なぜ急にそんなものを?
「このまま‥‥」
「え?」
「このまま何も出来ずにいるのは嫌だったから…‥。」
だから、自分の出来る事をしたと…そう言うのか?
こんなに傷を作って…‥。
「──ごめんなさい」
未だ、許せてはいない。心の靄は消えてはいない。
只、絞り出した声で謝り、堪え切れず泣き出したエドワードの頭を……自然に撫でていた。
「折角作って貰ったんだ。頂こうか」
不揃いに切られた野菜がゴロゴロと豪快に入れられたクリームシチューを皿に盛ると、ひとつをエドワードに手渡す。
一人で作った割にまあまあの見映えだろう。
パンを温め、二人で遅めの昼食を取る。いや、早めの夕食と言った方がしっくりくるだろうか?
既に、窓の外は眩いオレンジが深い闇に飲み込まれようとしていた。
「エドワード、そんなに見つめられては落ち着いて食べられないじゃないか」
自分が懸命に作った料理の味が私の口に合うか不安なのだろう。エドワードは、じっと瞬きもせずに見詰めていた。
指摘してやると一気に顔を赤らめ俯く。
その様子が可笑しくて、自然に笑みが漏れた。
「随分デカい芋だな」
シチューをスプーンで掬うと、スプーンに乗りきらない程自己主張をする野菜たちをからかう。
まあ、エドワードの反応は最初から期待はしていないが。ひと口口に運ぶ。
「……美味い」
正直驚いてしまい、スプーンを止めた。
「ホント……?」
私の言葉を聞いた瞬間、目を輝かせ尋ねた。
「ああ、とても美味いよ」
その様子を見て微笑めば、はっきりとした口調で繰り返す。
すると、エドワードは安堵からくる深い息を吐き、
「良かった……」
そう口の中で独り言の様に言った。
「今日は随分良く喋るじゃないか」
何気無くそう尋ねれば、エドワードはチラリと視線を一度寄越し、
「そう?」
気のない返事が返って来て、それ以後黙々と食事をする事となった。
食事が済むと、二人で片づけをする。私が食器を洗い、泡を流した食器の水滴をエドワードが拭く。
「休んでいてもいいのだよ?」
「そっちこそ……っ」
エドワードはそこまで言うと、急に口を閉ざす。
それで盛り返していた気持ちが再び沈む。折角忘れていたのだが……。
「拭き終えたら食器棚に戻してくれ」
「あ……、うん」
全ての食器の泡を流し終えると蛇口を閉め、手早くタオルで濡れた手を拭き、エドワードの返事を聞くと、テーブルを拭きに向かった。
やる事がないと言うのも退屈なものだ。もう、仕上げる絵も無ければ、これからまた一から絵を描く気力も無く。
暇を持て余し読書をし、少しの会話をエドワードと交し、その日は床に就いた。
「窮屈だろうが、我慢してくれ」
「平気……」
同じベッドに入ったエドワードに詫びを入れ、眠りに就こうと目を閉じた。
「おやすみなさい」
エドワードの声に薄く目を開け、
「おやすみ」
そう返した。エドワードは嬉しそうに笑った気がしたが、そのまま眠ってしまった為、それは私の夢か、それとも真の現実か――。
解らなかった。
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