リクエスト・企画小説
もう二度と(剛と武)


 ただいま


 綺麗に掃除された入り口には、準備中の札が下げられていた。
竹寿司と染め抜かれた藍の暖簾をくぐり、山本は久しぶりの我が家の中に足を踏み入れる。
カウンターの向こう側で午後の仕込みをしていた父は、白い割烹着に手拭いをしめたいつものいでたち。
顔を上げた途端、動作が止まり、毎日手入れを欠かさない料理人の命ともいえる刺身包丁が、静かにまな板に倒れた。
戸口に佇む息子に呆然と視線を向ける父は、山本が怪我した日からまだ数日しか経過していないのに、随分やつれて見える。
「た・・・けし・・」
絞り出される声は、掠れ、震えていた。山本はカウンターに速足で寄り、ただいま!と普段通りの挨拶をするが、父の威勢の良いおかえりは無く、代わりに見開かれたままの瞳から透明な雫が落ちた。

ぽたり、

ぽたり、

魚の切り身の上、刺身包丁の上、まな板の上にも。


父の大切な商売道具たちの上に絶え間なく降り注ぐ。


あの日、行ってきますと言って出たきり、部活が終わった時間になっても家に帰らない息子を、ほんの少し気に留めながらいつものようにこうしてカウンターに立っていた父にかかってきた一本の電話。
駆けつけた病院のベッドに横たわる変わり果てた姿に、どうしても現実を受け入れられずに。


「・・お、―――」
後は声にならずに、父は息子の前であるにも関わらず大粒の涙を流した。
頭に巻いていた手拭いを覚束ない手つきで外し、懸命に涙を拭うけれど、次から次へ溢れるそれは止めどなく。





『武坊!お前足を怪我したんじゃ・・・治ったのか?!』
商店街に入るなり、目敏い八百屋の店主に飛び付かれて頭をぐしゃぐしゃにされて、山本は戸惑いつつも笑顔を返した。
幼い頃から山本を知る父の幼馴染でもある店主は、目にいっぱい涙を浮かべながら山本の背中を愛しげにバンバン叩く。痛い、とは思うが、その痛みも今ならば嬉く感じた。
『大変だったなあ・・・大変だったなあ・・・!お前が一番苦しかったろうなあ。だけどなあ・・良くなったから言えるけど、父ちゃんはそれ以上に辛かったと思うぞ・・・父ちゃん病院で大変だったんだぞ・・・』





 おかえり―――声にならない声で、息子の帰りを喜ぶ父。
その父がまな板の上で作った震える拳骨を、山本は両掌で包み込み、きつく握る。
『寿司屋なら寿司を握る手と味を確かめる舌があればできる!けど息子の夢は走れる体がなくちゃ叶えられねえんだ!先生頼む!俺の体を武にやってくれ!頼む!!頼むこの通りだ!!』
そう言って冷たいリノリウムの床に額を擦り付けたのだという父。そんな事出来る訳が無いと解っていても、言わずにはいられなかった父―――。


 見舞いに来ていた間は、笑顔しか見せなかったくせに。


「ごめんな親父・・・心配かけて、ほんとにごめん・・・」
自分よりも小さくなってしまった肩先は、小刻みに震え続ける。
『もう父ちゃんに心配掛けんじゃねえぞ』
泣きながら見送ってくれた八百屋の店主に手を振りながらも思ったが、今あらためて思う。


もう二度と、あんな怪我はしたくない。いや、しない。





父のこんな姿は、もう見たくない。






おわり
山本が許した後でも、水野を殴る権利があるとしたらそれは剛パパだろうと思う。

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