素敵な頂き物
約束の証 春次朗様よりキリリクヒバ山小説
「優しさに包まれたなら」







並盛高校の中庭に植えられてある紫陽花が、いつの間にか咲いていた。
 大気が湿り気を帯び始め、どんよりとした厚い雲が明るい春の空を奪っていく。やがて、瞬く間にこの空からはまるで泣くような雨が降り続けるようになるだろう。細く降りしきる雨は、大地に潤いを与え、これから迎える夏を想って草木に恩恵を授ける。モノクロームにけぶる静かな中庭で、赤や青の紫陽花が、そこだけが浮き出るように鮮やかな色彩で群れをなしていた。
 どこからかくちなしの香りがするような気がして、一階の渡り廊下を歩いていた雲雀は、すんと鼻を鳴らした。

 そんな季節だった。





 この時期の放課後は、実は普段よりも校舎内が騒がしい。部活動が盛んなことで有名な並盛高校では、雨のためにグラウンドで練習ができない運動部が、こぞって校舎の中で筋トレやランニングを始めるからである。狭く暗い廊下では陸上部が、ダンス部のスペースに入り込む様にしてソフト部が、他にも階段の踊り場、昇降口近くの大きな鏡の前、とにかく校舎のいたるところに様々な部活動が入り乱れながら毎日トレーニングに励んでいる。もちろん文化部だって活動しているのだから、その光景は非常に混沌としていた。
 だが、そんな熱心な部活動にも休みの日というものがある。それが今日、6月の第2水曜日。この日は全学年の教員が会議のため、部活動は一切禁止となっていた。昨日までの慌ただしさも何処へやら、生徒が帰宅した校舎は、打って変わって静まり返っていた。外は雨が降っている。

(みんな帰っちまったかー)

 野球部期待のルーキー、1年A組の山本武は、雨に打たれて冷たくなった窓ガラスにそっと触れた。丁度中庭に面した二階の廊下の角に設置されている姿見の前で、彼は1人バットを持って自主練習をしていた。今日に限って、家に傘を忘れたのである。誰かの傘に入れてもらおうにも、綱吉は風邪で休んでいるし、獄寺は十代目がいないと分かると、すぐに家に帰ってしまった。頼めば快く了承してくれそうな友達は沢山いたが、綱吉や獄寺じゃないと意味が無いような気がした。
 ついてないなー、と軽くため息。しかし、そこで終わらないのが山本である。そうだ、こっそりひっそり自主練やっちゃおう!!と先生にばれないように、さっさとジャージに着替え、内緒で体育倉庫からバットを持ってきたというわけだ。

(それにしても、)

 温度差で出来た結露で曇る窓ガラスの表面を、山本の節ばった指の腹が撫でる。生憎絵心なんてこれっぽっちも持ち合わせてないから、へのへのもへじや相合傘なんかを描いていく。それにしても、

(生徒の帰った学校って、こんなに静かなのな……)

 あまりにも静かだった。
 なるべく先生に見つからないようにと思い、あえて薄暗い廊下の隅を選んだ。ここなら、鏡に映った自分と二人きり。山本は、窓に添えた手のひらはそのままに、ゆっくりと瞳を閉じた。すると、視覚の代わりに聴覚が敏感になる。誰の足音も声も聞こえない。雨の音が廊下に反響する音と、微かに自分の心音が聞こえるだけだ。

 指先が冷たい。どこかから仄かに、優しい香りがした。



「何やってるの」
 突然聞こえた自分以外の声に、けれど山本が驚くことは無かった。足音も、服の擦れる音もしなかったが、微弱ながらも中学の時よりは相手の気配を感じとれるようになっていた。
「ひばりこそ、見回りか?」
 瞼をゆっくりと持ち上げて、振り返る。窓には山本の大きな手のひらの跡が残った。手のひらは結露で濡れていた。
「質問しているのは僕だよ」
 雲雀は、何が気に食わなかったのか不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。黒い翼のように肩にかけた学生服が、いつ見ても相変わらずでちょっと笑ってしまう。
「傘忘れちゃったのなー」
 だから自主練、とバットを構える。鏡に映った山本も綺麗なバッティングポーズをとった。雲雀の眉間の皺は寄ったままである。むしろさらにきつくなった気さえして、山本は内心で首をひねった。高校でももちろん最強風紀委員長として君臨している雲雀とは、4月に入学してからも何度か顔を合わせているが、その度に雲雀は不機嫌そうな顔を山本に向ける。いったい、どうしたのだろうか。ただ単に機嫌が悪いだけなのかと思っていたが、これはそろそろ自分が何か雲雀にしてしまったと考えた方が良いのだろうか。
 雲雀が黙ったままでいるので、うーん、と考えこんでいると、鏡の中にいる山本のバッティングポーズが少し崩れた。慌てて構え直してから、バットを一振り。しゅっと空気を切る音が、窓を打つ雨音に消されることなく山本の耳に届いた。もう一度振る。リズムを掴んで、何回も。穏やかに降る雨の音の中に、馴れ親しんだ音が混じって、静かな廊下に飾り気なく響いた。
「君は」
 雲雀はぽつりと独り言のように呟いて、それきりまた黙った。音の中に一瞬飛び込んできたその声は、混じることは無い。山本は聞き返すことをしなかった。ただ、素振りを止めて雲雀を見た。また雨の音だけになった。

(あ、)

 ふ、と。
 山本は手を伸ばして、雲雀の髪に触れた。青い、小さくて上品な花弁が、ひらひらと舞いながら床に落ちた。紫陽花だ。鼻孔に、さっきの優しい香りが届いた。
「花びら……ついてた」
「……」
 なんの返事も無かったので、怒られるかな、と山本はちょっとだけかがみこんで雲雀の顔を覗き込んだ。途端、雲雀の双眼が苦しそうに細められたので、山本はびっくりして薄茶の瞳を瞬かせた。
「…君の指先は、冷たいね」
 反らすことを許さない強さを持ったまま、雲雀の瞳は憂いを帯びた。そんな表情をまっすぐにぶつけられたのは、初めてだった。
「オレさ!」
 山本は、わざと大きめな、明るい声をあげた。伝えなければいけないことがあるような気がして、だけど何を言葉にすれば良いのか分からなかった。ただ、雲雀の眉間に寄った皺を何とかしたいと切実に思った。
「オレ、この三年間で絶対甲子園に行くんだ」
「……」
「だから、今までの何倍も頑張る。オレの野球人生の中で、一番ってくらいに!ここ七年間ずっと県のベスト8だった並高が、甲子園出場だ。もちろんやるからには優勝も狙う。並高も一躍有名だぜ!すごいだろ、雲雀。夢みたいな目標だけど、オレ、絶対やるから。だからさ、雲雀」

 だから、だから雲雀。

「君は」

 そんな顔をしないでよ。

「本当に自分がそれで諦められると思っているのかい?」

「え……」
 返された問いの真意に、山本は言葉を失った。動揺している自分に気付いて、さらに慌てる。それを隠したくて――隠しきれないと分かっていても――もう一度窓の近くに寄って、雨が叩くガラスのひんやりとした冷たさに触れた。そうすることで、少し落ち着く気がした。曇った窓ガラスに、雲雀の顔がぼんやり映った。
「……はは」
 どこまでバレてんのかな、と苦笑する。
 高校三年間で野球すげえ頑張って甲子園に行って。
 そしたら、野球とはすっぱり縁を切ろう、と決めていた。
 未来から帰ってきて、ツナや獄寺たちとの毎日を過ごしながら、山本なりに考えだした結論だった。山本が、赤ん坊のなりをした天才ヒットマンだけにその心の内を話した時、他の奴らには内緒にしてくれと頼んだら、彼は複雑な面持ちで「いいのか?」と尋ねたものの、二つ返事で了承してくれたのに。
「別に赤ん坊に聞いたわけじゃないから」
「じゃあ何で…」
「君は分かりやすいからね」
「……そっかな」
「うん」
「そんなことないと思うんだけどな……」
「馬鹿だね、君は」
「ひでぇ!」
「馬鹿だよ。…だから」

「君は、そんなに1人で我慢しなくて良いんだよ」

 馬鹿なんだから、と。
 気付くと、雲雀の表情はどこかすっきりしたように見えて、ずっとこれが言いたかったんだと知る。知って、山本は心臓の辺りがきゅっと捕まれるような感覚になった。あ、やばい。
「山本」
 振り返ると、雲雀よりも先に、大きな姿見に映る自分の泣きそうな顔が見えた。



 どんなに祈っても、神様が願いを叶えてくれるわけではないということを知ったのは、いつの時だったか。
 本当は、小僧に話した時からずっとずっと不安だったんだ。自分で納得してだした結論なのに、もう1人の自分から「後悔するぞ」と耳元で囁かれる。野球をきっぱり諦めることができないかもしれない。ツナが悲しむかもしれない。獄寺に怒られるかもしれない。親父を危険な目にあわせるかもしれない。そして、色んな人を傷つけるに違いない。野球選手になって、沢山の知らない誰かに夢を見せるために励んできたこの体が、沢山の知らない誰かを不幸にするんだ。だけどそれでも、他人の幸福を奪ってでもあいつらとずっと一緒にいたいって思うオレは、酷く残酷な人間のように思えた。
 オレは、そんなオレが怖くて仕方がなかった。そんなオレを誰かに知られるのも、怖くて仕方がなかった。

「それでも……オレ、は」

 降り続ける雨と一緒に、オレは少しだけ雲雀に本音を話した。







「あー…雨やまねぇな」
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。朝から細く降り続いている雨は、相変わらずである。山本は冷たい窓ガラスの下にどこか所在無さ気に俯いて座っている。雲雀は腕を組んで姿見の隣の壁に体をもたれかけていたが、やがて体を離して背筋を伸ばした。山本は顔を上げてそれをぼんやりと見て、内面を吐露したことに少しの後悔を感じた。嫌われただろうか、それとも呆れられているだろうか。
 「野球を続けろ」と言われるだろうか。
 黒い学生服がひらりと揺れて、また、香る。先ほどから時々鼻を掠めるこれは、何かの花の匂いだろうか、と首を傾げた。
「きみ、今度から傘を忘れた時は応接室に来なよ。忘れ物の傘を貸してあげるぐらいできるから」
「……いいのか?」
 雲雀の声色がいつもと変わらなくて、知らず知らず強ばっていた肩の力を抜いた。雲雀は窓の外を見ていた。
「がむしゃらに練習したってダメなことぐらい本当は分かってるでしょ。休む時はちゃんと休まないと出来るものも出来なくなるじゃない」
「え……」
 驚いて雲雀を見ると、雲雀は横目で山本を見てふっと笑う。

「甲子園で優勝して、並盛の繁栄に貢献してくれるんでしょ?」

「……っはは!やっぱ雲雀は優しいのなー!」
 わぁん、と山本の声が廊下に響いた。その内容に雲雀は端正な顔を盛大にしかめてみせて、それからため息をつきながら小さな声で呟いた。

「……変な子」

 それでも薄らと口角を上げるものだから、山本もつられて笑ってしまった。

「ひばり、」

 もしも、人の優しさというものに形があるとしたら。雲雀の優しさは、なんて無駄のなく、真っ直ぐなんだろう。そこには、嘘も偽りもない。

「ありがとな!」


 どんなに祈っても、神様が願いを叶えてくれるわけではないということを知ったのは、いつの時だったか。
 そして、だからこその“自分”があり“他人”があると、気付いたのは。






「あ、そうだ雲雀。この匂いなんだか分かる?さっきから時々香るんだけど……」


「ああ……くちなしの香りだよ」









 ばさっ
 薄暗い昇降口から出て、雲雀に貸してもらった誰かの忘れ物の傘を開いた。青い色をしたそれは、まだ充分に使えそうで、誰が忘れてしまったんだろうな、と山本は人知れず眉を下げる。くるくるくると確かめるように手の中で回すと、弾かれた雨粒がきらきらと光った。
 昔読んだ物語みたいに、雨が上がって空に虹がかかる、なんてことは無かった。けれど、中庭のどこかで凛と咲いているくちなしの香りが、優しく俺を包んでくれている。
 神様なんかいなくても、虹なんてかからなくても。


 それだけで、充分だった。






おわり
キリ番を踏んだのが確か5月か6月くらいでした。当サイトの山本は設定上5〜6月の雨の時期はちょっと精神的に辛くて可哀想だったので、せめて他所様では優しくしてもらって欲しいと『山本に優しい雨を降らせてやってくれ』という旨のコメントをしたところ、見事に応えていただきました!!
流れる穏やかで優しい空気に私も癒されました。春次朗さんありがとうございました!!

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あきゅろす。
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