素敵な頂き物
tobiuo heightsの蒼山様より 30000hitリク獄にょ武 【Save Our Souls】
【Save Our Souls】



 日曜の午後、久しぶりに晴れた空に目を焼かれながら、アパート下の愛車の元へと向かう。
 高校時のちょっとしたバイトの貯金。大学に入ってからの行き過ぎるまでのバイト生活で貯めた金。それでやっと買えた愛車とも、そろそろ半年の付き合いになろうとしていた。
 慣れた動作で鍵を開け、隣の車に気をつけながらドアを開けば、陽光に照らされていた車内から熱がぶありと滲み出る。
「……やってらんねぇ…」
 嫌気が差して呟いたところで、どうなることでもない。盛大な溜息をついて、後部座席へと両手に持った荷物を積み、しょうがなく運転席へ乗り込んだ。
その時、ふと目に付いた紺色。…ジャージの上着だ。くたりとくたびれた様子で、忘れられたように助手席のシートに落ちていた。自分の物にしては少し小さい、だけれど見覚えのある服。
「あいつ…」
 忘れていった犯人を思って、溜息が浮かんだ。
 それと共に、このジャージをよく着ていた頃のあいつの不思議な笑顔も。

 あいつは、不思議な人間だった。そして、歪な女だった。


***


「ネクタイ曲がってる」
 中学二年の初夏。引っ越して学校が変わった俺が、初めて登校した朝、最初に見た人間が山本武だった。
 学校までの道程にどのくらいの時間が掛かるか分からず、少し早めに出たあの日、学校に行ってみれば、誰もいない校庭と誰もいない昇降口に迎えられた。
 まだ、早朝に近いその時間の景色は、どことなく色が白や灰色がかっていてぼんやりとしている。あまりに早く出て来過ぎたらしい自分を笑ったところで、掛けられた声がそれだった。
 靴を替えるために俯いていた顔を上げ、少し睨みつければ、満面の笑みがもう一度同じことを言う。
「ネクタイ、曲がってるのな」
「あ?」
 学校指定ではない紺色のジャージを着て、背中にバットを担ぎながら目の前に立っている姿。向こうが校舎の方から降りてきたせいで、こちらより一段高いところにいる。自然と見上げる形になっていた。
「転校生?」
「……」
「職員室、そこの階段上がって右のところにある。2階な」
 訊ねもしていないのに勝手に告げて、山本は靴を替え、校庭の方へ走っていった。同じ地面に降りて来ても、こちらより少し目線が高くて少しイラついたのを覚えている。
「お節介なやつ」
小さな頭と、短く整えた髪、すらりと伸びた身長。それに爽やかな満面の笑み。『いい人で、野球部のエース』そんな型にはまりすぎていて、嫌な気分になり眉を顰めた。

 そして、その数時間後には驚きの事実を突きつけられ、また眉間に皺を深く刻むこととなる。
 担任だと言う教師に連れられ、入っていった教室の中。
 どことない嫌な予感。
 案の定、一番後ろの校庭に向かった窓際に、先ほどのお節介なやつがいた。そして、そいつは、自分の制服とは違い、襟元にはリボンがかかっていたのだ。


***


 暑いというのに、他のことに気をとられて、まだかけていなかったエンジン。キーを差込み、ぐるりと回した後、まず窓を開ける。その後にエアコンのスイッチを押したが、内で温められた熱風が顔に直撃して、嫌な気分になった。
 溜息をつきつつ、手に持ちっぱなしだったジャージを適当に畳んで、助手席のシートに投げる。そのジャージが誘ってくれる過去への回想は、少し苦い味がするのだ。色々な意味で。
 あの頃の自分は、まるであの少女に敵わなかった。まだ女ですらない、中世的なさなぎのような少女に。
 自分自身もまだ男になりきれない幼い少年だったのだが、あの頃の自分は自身を大人だと思っていたために、また苦味が増えていった。
 ほんの小さい幼少の頃はともかく、大分育ってから――つまるところ中学に入ってから女子に負けたことはなかった。
 勉強も運動もそれなりにできて、周りの同年代よりも一つ頭が抜けていた自信があったのだ。それなのに、いとも容易くそれが塗り替えられていく。しかも男ではなく、女にだ。
 少年のような少女ではあったが、彼女を包んでいるのは紛れもないスカートだった。それが酷く屈辱的だった。
 ただ、そのあとの思考回路はあっけないものだ。「『山本武』だから」で片付けられるように脳が働いた。女としてみるのではなく、1人の人間として割り切ってしまえば、自分の心は幾分慰められた。
 そんなある意味歪んだ最初で、俺の山本武認識は始まった。
 だが、割り切ってしまうと簡単なもので、女子とはなかなか気が合わない自分でも、山本武となら話があった。お節介で、馬鹿で、正反対の性格で、喧嘩も結構したが、あの頃一番仲がいい人物のひとりだった。


***


 「獄寺ー、昼の時間だぞー」
 トントン、と遠慮無しに机を叩かれながら掛けられた声に、意識が上ってくる。
 机に伏せていた重たい頭を面倒だと思いつつ上げると、急な明るさにやられた目は視界を黒くしたままだった。
 梅雨の中休みとでもいうような、日差しの強い晴天の正午。自分の両腕で囲っていた視界は、それに比べればかなり暗かったらしい。
「獄寺ー、大丈夫かー?」
 間延びした声が頭の横から聞こえる。うっすらと戻ってきた景色を確認して、ひらひらと顔の横で手を振った。
「午前中、ずっと寝てたな」
 そう言って、山本は俺の前の席にちゃっかりと座ってしまう。その席の本来の持ち主も、どこかに移動した後のようだ。
 かけられた言葉は、咎めるような内容だが、本人にはそんな意思がない響き。こいつのそういうところが楽だと思っていた。
「獄寺君、大丈夫?」
 ぼんやりとしていれば、また別の心配げな声が後ろから掛かる。
「あぁ、大丈夫です」
 今度は背筋を正して、きっちりと振り返り言葉を返す。そこには、この当時仲の良かったもう1人が、弁当片手に立っていた。
 こちらの答えに安堵したように笑った後、「山本、隣いい?」と一声かけて、俺の前のもうひとつ席に座る。遠慮がちなこの少年の方が、早々に座った少女よりもいくらか女性らしいな、とあの頃も思った。
 二人が後ろを向いて座り、俺の机に弁当を広げ始めるのを見て、俺もコンビニの袋からパンを出して封を切った。
「今日はどうしたの?すごく眠たそうだよ?」
 心配そうに聞いた十代目。その横の視線もこちらに注がれている。
「いや、別にどうってことはないんです。ただ、昨日の夜ゲームしてたら、いつの間にか朝になっちまってて」
「あ、そうなの?獄寺君がそんなことになるのって珍しいね」
 なんだ、と目を丸くしたあと十代目は、止まっていた手を進めて弁当を開けた。その中身が揚げ物だらけで茶色っぽくなっているのに、すこし眉を寄せていたが、気を取り直すように「何のゲーム?」と訊ねてくる。
「あーっと、あれです。ゾンビ出てくるやつ」
「あーアレか。俺も昔やったよ。PS期のやつ」
「まじですか!残念ながら俺はキューブなんすけど…」
「あー、そっかー。でもすごいなぁ、アレを夜通しって…。俺、PSのCGですら怖くて夜は出来なかったんだよね」
 二人でくだらないゲーム談義に花を咲かせる。対照的なこの友人と自分とできっちり話が合うのは、生憎ゲームくらいだった。
 それを、牛乳パック片手に眺めるもうひとりは、残念ながらまるでこの話には付いていけない。
 3人同時に噛み合う事など皆無に近かった。
 山本は、話に夢中になり箸が遅れていた俺達よりも、少し早めに昼食を食べ終わったらしい。だが、それに気もやらず、話し続ける二人の内容がここでやっと気になったようだ。
「そんなにそのゲームって面白いのか?」
「んー……まぁ、そこそこ…かな…?」
「それにしては、二人とも話題尽きないし」
「やり始めると止まんねーんだよ」
「俺達、凝り性みたいでさ」
 そうして俺が苦く笑っても、十代目が照れたように笑っても、この次に訪れる結果は同じだった。山本も、やってみたい、と言い出したのだ。恐らく、こいつがやっても何の興味もない、何の楽しみもない物なのに。
 ただ、二人が興味を持っているから、興味がわく。それだけだ。

 その内容が、時には野球に変わったり、買い物に変わったりもした。3人のうち誰かの喜ぶ趣味。あの頃は、ただこうして何かを3人で共有するのが楽しかった。
 成績の悪い優等生と、成績のいい不良と、男のような女。
 今思えば、俺達は不思議なメンバーだっただろう。まるで、どこにも入り損ねた異端者が肩を寄せ合ったようなそんな風に見えていたかもしれない。
 だが、そこがこの時代、一番心地いい場所だった。


***


 結局あの女は、俺達とばかりつるんでいた。ゲームもしたし、あいつの野球遊びにも付き合った。そのおかげで、キャッチボールは下手な野球部よりも上手くなったし、スポーツテストの結果も上がった。
 春になれば、禁止されている屋上に秘密で上がり、弁当を広げたし、夏には近所の川に釣りに出かけたりした。秋は30キロも離れた湖まで出かけたこともあったし、滅多に降らない雪が降った冬の日には、黒板消しを雪の中に埋めるイタズラをして怒られた。馬鹿みたいなことばかりやっていた。
 あいつの実家の寿司屋に遊びに行くこともあった。普通の感覚で言えば、クラスの女子の家なんて中学生男子が訪れる場所じゃなかったが、自然と気にはならなかった。
 理由は、もちろん『山本武』だったからだろう。
 カウンターに3人並んで座って、山本の親父に遠慮なく寿司を強請っていたくらいに自然だったのだ。
 山本は別に女子に虐められていたわけでもなかった。
 むしろ、憧れのように持て囃されて、女子はあの女のファンだ、とか冗談交じりに口にする。そんなキャラクターだったのに、あいつは少しだけクラスの女子と一線を引いていた。

 ふと我に返り、サイドブレーキを外し、ミラーを確認して走り出した。エンジンを掛けたと同時についたカーナビの画面の少し大きめの時刻表示が、行動をせかす。
 エアコンで冷えだした空気が、外から入ってきた風によって混ぜ返される。その風の温度で、不意に過去の嫌な映像が頭へフラッシュバックを起こした。
 エアコンの風向きを変えようとスイッチに手を伸ばした時、目の端に映ったカーナビ上の公園名で、更に気分は低下する。計ったようなタイミングの悪さに気持ちが悪くなった。
 思い出したくもないような、嫌な思い出。
 自分でさえそうなのだから……と溜息が訴える。突然思い出してしまった、不安そうな、泣き出しそうな、滅多にないあいつの表情が、いやに頭にこびり付いた。


***


 秋の気配が色濃さを増している。そんな時期だった。中学最後の年。皆、型にはまったように塾や家庭教師に多くの時間を割き、誰の希望か分からない、希望の進路とやらに必死になって進んでいた。
 しかし、特に勉強に苦労した覚えのない自分は、そうした流れに乗ることはせず、今までと同じような生活をしていた。周りの大人は「できるだけ偏差値の高い頭のいい学校に行け」と、大人の理論で諭してくれたが、自分自身は朝遅くまで眠っていられる、一番近くの公立高校を受ける気しかなかった。

 学校から家に帰った後、小腹が空いて近所のコンビニへ向かった。今日は唯一である同居人の母親が、夜勤で帰ってこないので、夕食がなかったのをその時思い出したからだ。
 コンビニへの行きしな、途中の運動公園に見慣れた姿を見つけた。小さな林に囲まれた広い運動公園で、入り口から姿が見えたのは、偶然に近い。
 一心不乱に、素振りをする姿。入り口から遠くに見えただけの小さな姿なのに、バットが風を切る音が聞こえてくるようだった。
 自分と同じ年で受験を控えており、そういうほど成績がいいわけでもない。だが、あいつはずっとバットを振っていた。
 実は、この様を見るのは初めてではない。今までに何度か、ここ最近は頻繁に、追い詰められたように素振りやランニングをするあいつに出会う。
 だが、いつも言葉も声もかけずに、遠くから眺めるだけだった。言葉をかけることの出来ない雰囲気。
 俺はそれに対して、何か言いたいような、どこかモヤモヤした不安や不満を持っていた。しかし結局、言葉にする力と努力が足りていなかったのだ。だから、いつも見て見ぬふりをしていた。

 一瞬、山本の家の寿司が夕食のメニューにあがった。今日は、あの山本にさり気なく言葉をかける絶好の理由があるのだ。どうしようかと、公園の入り口で足が惑う。
 だが、見つめた先のあまりにも緊迫した表情で、ついに足は進まなかった。
 振り切るように足を逆側に進めて、当初の目的地であったコンビニへ向かう。
 今でも、俺はこれを後悔している。

 何故かその日は近所のコンビニの弁当が品薄状態だった。あまりにも貧相な品揃えに、別のコンビニへ足を伸ばそうという気が沸く。幸いにも、そこから10分少々のところに違うコンビニがある。どうせなら、とそのまま向かった。
 そのコンビニで、偶然にもその日が発売日の好きな雑誌を見つけて、立ち読みをした。いつものコンビニには置いていないし、書店では縛られていて読むことが出来ない。「どうせ家に帰っても誰もいないのだし」と、いつもは読み飛ばす巻末の占いのページまできっちり読んで、弁当を買って帰った。
 家を出てくるときには、西の空を赤く染めて、薄い夕焼けを残していた太陽も、今はすっかり山の奥へと消え去っている。空は紫を過ぎて藍に変わっていた。最近は、太陽が余韻も感じさせずにポトンと落ちて、すぐに辺りを暗くする。
 自分も結構な時間立ち読んでいたのだろうか、と携帯を光らせれば、コンビニに入ってから半時間は経過していることを教えてくれた。
「あー」
 時刻と暗闇が、肌寒さを感じさせた。
 七分丈の薄い上着を手でさすってしまう。右手に持っていた弁当のぬくもりを、左手に触れさせて、気分を和らげる。しかし、すぐ後にぶるりと震えが走って、少し足を速めた。
 そんな足が少し迷ったのは、また公園前だった。この公園を抜けることは、実は家に帰る近道になる。しかし、最近はその近道を滅多に使うことはない。
 理由は簡単だ。あいつがいるから。
 声もかけられないような、切羽詰った顔をして、痛みを吐き出すように素振りをする。そんな姿と出会っても、自分には何も出来ないと知っていた。
 そこから湧き出る無力感や、あいつへのわけも分からない不満を見たくなくて、出会わないように努めていた。
 長く、しかし実際には限りなく一瞬に近い思考の末、公園内へ足を向ける。どうせこの時間だ。あいつも、親父が心配する、と帰っているだろう。そう思った。
 実際の気温がどうだったか分からないが、俺はその時、抗いがたい寒さを感じていたのだ。息が白くなっていてもおかしくない、それくらいの寒さ。早く帰りたかった。

 夜の公園は、静かだった。公園を囲んだ林が距離となり、住宅街の生活音を打ち消す。この時間になると、電灯もちらほらなこの場所では、遊びに来る子供もいない。
 自分が砂を蹴る音と、コンビニの袋が擦れる音。
 自分の耳に届くのはそれだけだった。
 いや、それだけだと思っていた。


***


 快調に流れている道路状況だが、気分は最悪だった。入ってくる風に苛立って、窓を閉めたが、エアコンで冷えた空気を感じてしまっては元も子もない。
 芋づるしきに溢れてくる嫌な思い出は、眉間に深い谷を作った。

 遠くの記憶のはずなのに、何もかもが鮮明に蘇ってくる。
 細い悲鳴。啜り泣きの様な、聞いたこともないあいつの声。
 誰かの荒い息。
 薄暗い林の湿った空気が頬を叩く感触。枯葉が作る林の柔らかい土の踏み心地。
 薄い闇にぼんやりと浮かんだ。
 白い服。
 白い肌。
 白い顔。
 そして、それらを覆い隠す大きく黒い身体。

 はっと前を見れば、目の前に信号の赤が迫っていた。無理矢理ブレーキをかける。きっ、とタイヤが短い悲鳴をあげ、そのあとに後続車のクラクションが鳴った。
 停止線から出すぎた車の前を、結構なスピードで多くの車が横切っていく。
 心臓が酷い音を立てていた。自殺のような事故を起こしかけたこと、それだけが原因じゃないのは自分が痛いほど分かっている。

 目の前で白い顔が揺れる。酷い眩暈がしそうだった。


***


 黒く大きな影の腹を無我夢中で蹴り上げていた。
 そこまで本気に生き物を蹴り飛ばしたことなんて今までなく、靴の爪先が肉にめり込んだ感触が恐ろしかった。だが、それが思いのほか効いたのか、男はそれまでとは違う意味で息を詰まらせ、大きく咳き込み、蹲った。
 黒が退いたせいで、隠れていた白が現された。ぞっとするような白。それは、間違いなく自分の知っている顔だった。
 破れた白いシャツ。ずり下がった服。
 普段は晒されない白い肌に、目を焼かれそうになり、ふっと視線を逸らす。
 その視界の端、黒が思いもよらない俊敏さで、暗い暗い公園を走り抜けて行こうと動いているのが見えた。
 許せない、と正義にも似た感情に突き動かされ、走り出そうとした瞬間、ぐっと足に何かが絡まって、動きを止めた。まるで引き止めるように。
 視線を下げると、映ったのは見慣れたジャージの上着。
 血液が一瞬で沸騰するかのごとく音を立てて頭に上り、しかしそれと同じ速度で、さあっと引いていくのを感じた。
「……やま、もと」
 ジャージに足を取られたまま振り向くことさえ出来ず、後ろにいるであろう女の名前を呼ぶ。
 だが、カチカチと歯が微かに触れあう音が、歪に空間を揺らすだけで、期待した明るい声色は返ってこなかった。
 ブルブルと自分の手も震える。その震えた手で足元のジャージを拾い、少しの躊躇いの後、振り返った。
 カチカチと鳴り止まない歯の間で、必死に取り繕った「ごくでら」という声が、行動の決め手だった。

 ガタガタとまだ小刻みに震える手を掴んで、とにかくあの場所から離れなければ、と早足で歩いた。七分丈のシャツを貸して、その上に先ほど拾ったジャージを羽織らせたが、右手の先はまだ寒そうに震えている。
 必死に自分の身体を抱きしめている、山本の右腕が目に付いてたまらない。
 逆に自分は、上着を貸したのにまるで寒さを感じなかった。先ほどまでの寒さが嘘のようだ。
 むしろ、身体を、原因不明の憤りに似た熱が巡って支配していた。だが、その理由を考えないようにして、とにかく歩いていく。
 一瞬山本の家への行き道と、自分の家へのそれとが、分かれる交差点で足を迷わせたが、右手の先が揺れるように反応したために、山本の家に向かうのはやめた。
 ここから近いのは自分の家だから、と頭に理由を浮かべる。とにかく、安全だと思う場所に早く着きたかった。

 家に帰ると早々に、タオルと母親のパジャマを押し付けて、山本を風呂場へ押し込んだ。その姿が視界から消えて、やっと思考が働き出す。現実感が戻って来て、警察への電話や山本の父親への電話などが頭を過ぎった。しかし、動き出せない。人に説明が出来る程、自分は落ち着いていなかったのだろう。
 所詮、まだ中学生だったのだ。
 あぁ、と溜息をつき、冷蔵庫に入っていた麦茶をペットボトルのまま呷って、もう一度落ち着けるように溜息を落とす。
 一瞬前の出来事を、思い出すな、思い出すな、と必死に目を瞑った。

 その時間を終わらせたのは、もちろん風呂場から出てきた山本だ。時間を確認すれば結構な時が流れていたが、それを感じることが俺には出来ていなかった。
 あの出来事が数秒前のような気がする。
 しかし、風呂から上がってきた山本は、不自然なほどにいつもどおりで「風呂ありがとうな」と笑顔まで見せた。
 まるで何もなかったかのような様子。
 出てきたこいつになんと声をかけようか、と悩んでいただけに、拍子抜けも甚だしい。
 そんな山本が、怪訝で一瞬眉を顰めたが、ふと目に入った右手が未だに軽く震えているのを目にした途端、背筋に緊張が走っていった。
 まだ、怖いに決まっている。必死に取り繕った笑顔が、逆に痛々しく見えてくる。なのに、目の前の顔は、依然として必至に笑おうとしているのだ。
「…山本」
 少しの沈黙の後、名を呼べば、含みを感じ取ったのか、笑顔の目線は少し逸らされ俯いた。
「…迷惑かけて、悪かった」
「……」
 別にそんな言葉が欲しかったんじゃない。
 だが、器用そうに見せつつも、実はとんでもなく不器用だったこの頃の俺は、掛ける言葉を持ち合わせてはいなかった。
 最終的には、少し咎めるような色をのせて、もう一度小さく名を呼ぶだけになった。
 それに対して、また山本の顔は少し下った。
「迷惑掛けて、ごめん。……ありがとう……助け、てくれて…」
 最大限まで俯き下った目の前の見えない唇から、弱い声が落ちてきた。最後は、嗚咽のような詰まりがあった。
 自然とこちらも視線が下った。山本のつむじが見えていた視界は、いつの間にか床に落ちたコンビニ袋に変わる。
「…おい」
 言葉が出ずに、煩悶の切れ端のような呼びかけだけが宙に浮いて、ひとり行き場をなくした。
「…それじゃ、俺、帰るわ」
 続かなかったこちらの言葉にとって変わったのは、明るく取り繕った声。
 はっと顔を上げれば、酷く歪な表情をした山本が、こちらを見ていた。今にも泣き出しそうな、悔しそうな内面を、覆い隠そうとして失敗したような顔。
 右手は、依然震えたまま、身体に添えられている。
「…お前、馬鹿じゃねーのか?」
 思いの外、簡単に言葉は出た。
 その言葉は、この状況で帰るということだけを指して言った言葉ではない。それを感じ取ったのか、山本はいっそう顔を歪めて、笑顔を取り繕うことをやめた。
 初対面からの悔しさと劣等感で見えていなかったが、こいつは、小さなれっきとした女なんだ。皮肉なことに、俺がそれを理解したのはこのときだった。
 いくら強くても、守ってやらなきゃならない、確かな女。

「女のくせに、強がってんじゃねーよ」

 それが、理解して最初に出てきた言葉だった。 俺なりの慰めと、諌めだったが、この言葉を聞いた途端、俯き加減だった山本の顔がきっちりとこちらへ向けられた。薄く水の膜を張ったような瞳の睨みと共に。
 そして、視線がかち合った次の瞬間、山本の容赦ない平手打ちを左の頬が感じていた。
 一瞬起こった静を弾くような大きい音が、マンションの狭いリビングに響く。だが、そのあとには、またシンと水を打ったように場は静かになった。
 山本は、斜め上に振り切って止まった手を、呆然と眺めた後、張られたまま首を戻さない俺の横顔を見て、ふるりと震えた。何かを言おうと口を開いたが、すぐにまた閉じられる。
 俺は、一瞬何が起こったか分からず、左の視界の端に映る、山本の右半身を何とはなしに見ていた。
「何だよ」
 ポツリと言葉が零れた。山本が、右手を力なく下ろして、体の横で小さく拳を作る。
「なんなんだよ」
 ゆっくりと視線を戻せば、唇を噛み締め、拳を握り、必死に震えと涙を耐えようとしている、小さな女がいた。「ごめん」と今にも消え入りそうな、強張った声が漏れたが、力は緩まない。
 その頑なな様に、公園での違和感と激情が流されてやってくる。
「なんなんだよ、お前はさ!おかしいだろうが!何で、夜遅くまで、あんなところに1人でいたんだよっ!?それも毎日毎日っ!よく考えろよ!行動パターン読まれるってわかんねーのかっ!?何してんだよ!もう受験の時期だろうがっ!しかも、お前は女じゃねぇか!あんなところで1人でバットなんか振ってねぇで、明るいうちにちゃんと家帰って、勉強してろってんだっ!!」
 そこまで言って、本音であると同時に、自分の言葉に少しだけ違和感を覚えた。
 激情は本音であり、事実であったが、つい昨日まではそんなことは思っていなかった。ただ、時折見る、度を越した山本の切羽詰った表情に、不安を抱いていただけだったのに。
 だが、それを上手く言い表す言葉が思いつかず、常日ごろ大人が俺に浴びせてきた言葉が、最後を浚っていった。
 山本に焦点を戻せば、表情がいっそう歪んでいた。
 きつく眉を寄せ、切れるんじゃないかと心配になるほど、唇が噛み締められていた。左手が、もう一度飛び出しそうな右手を必死に押さえている。
「…お前にだけは、言われたくなかった」
 少し黙った後、山本が詰めた息と共に吐き出した、苦そうな言葉。
「何が」
「お前には…言われたくなかった」
 言葉と同時に、お前だけは言わないと思っていた、という失望が瞳に浮かんでいた。
「だから、何が…」

「俺は、女じゃない。山本武だ」

 見たこともない、怒ったような、泣き出しそうな表情と共に落ちてきた言葉は、まるで静かな悲鳴だった。







後編に続きます

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