それは幸福 2 思いがけないこと、ありえないこと...それは突然春臣自身の身に起きた。 映画の打ち合わせがあると言われやってきた待合室。目の前に立つのは複雑な顔をしたマネージャーである京太。 「どういう、ことだよ...」 春臣の目はこぼれんばかりに見開き、全身の血液がサーッと下がっていくのが分かった。 「俺が主役降板って...」 今にも消え入りそうな声。震える体。春臣は京太に言われた言葉を繰り返し、そして縋るような瞳で見つめた。しかし京太は依然として口を一文字に結び、目線を下げたままだった。 意味が分からなかった。なぜ自分が降板したのか。こんなにも役者という仕事に全てを注いでいるというのに。 「なんでだ?俺が一番適役だろう、俺の何がダメなんだ。降板の理由は何だよ...っ!」 「春臣は何も悪くない。お前の演技は素晴らしい。天才だ。だけど、今回は監督の意向が急遽変わった。その結果春臣は助演となった。そして主演は...――― 千晶だ、」 「...ッ!!」 その瞬間、春臣は持っていた打ち合わせ資料を京太の顔に投げつけた。受け身を取らない京太に当たったそれはパラパラと床に散りばめられていく。 信じられない現実に打ちのめされ、春臣はソファに崩れ落ちるようにして座った。 今まで役者一筋で生きてきた。それなのに芸能界に入って数年の千晶に決まっていたはずの主役の座を奪われたのだ。 「春臣、今回の役はミステリアスで謎めいた男の役。お前ならきっとそれさえも臆することなく演技できただろう。だけどな、千晶は売り出し文句からしてそれに近くて、だから監督も―――」 「それでも、主役は俺だって決まっていたはずだ!!それが何で今になっていきなり降板になんて、」 落ち込む春臣の肩にのせる京太の手を振り払い春臣は激昂する。それは普段見ることのできない春臣のむき出しの感情だった。冷静になることなどできない。それだけ春臣はショックを受けていた。 「それは俺がその映画に出たいって言ったから。京太から聞いてない?春臣の前に本当は俺に最初主役のオファーが来てたこと」 「...っ、千晶、お前はちょっと廊下に出て待っててくれ、今は春臣と2人で―――」 「待てよ、じゃあ俺は初めからこいつの代理だったってことなのか。こいつが断ったから俺に話が来て、今になってOK出したから俺はいらないって...そういうことかよ」 京太は何も言わず立ち尽くしていた。それはどれだけ春臣がこの仕事にプライドをかけているのかを知っているから。 しかしそんな京太の横を通り春臣の前に歩いてきた千晶は穏やかな表情で春臣の頬を撫で、顎を上に持ち上げる。 「それ以外の何があるっていうの。あんたは俺に負けたんだよ」 その時、初めて春臣の歩んでいた道が脆くも崩れ始める音がした。 「なんでなんだ...俺の方が上手いのに、なのにそんな俺が主役降板だって...?許さない、絶対に許さない」 フードを深く被った春臣は死んだ魚のような目をしてぶつぶつと呟きながら夜の街を当てもなく歩いていく。 あんたは俺に負けたんだよ”そう嬉しそうに話す千晶の言葉が脳内をぐるぐると回り続ける。俳優を生きる糧としてきた春臣にとって今回のことは人生を揺るがすほどの衝撃だった。だからこそ京太も真実を知った春臣を見て気安い慰めなど出来ず口を戦慄かせるばかりであった。 血の気が引いた春臣は目の前にいた千晶を突き飛ばし外へと走り出した。それ以降の記憶はなく、気がつけばあたりは暗くなり煌びやかな明かりが灯されていた。 誰も彼もが自然と春臣を避けるようにして歩いていく。あの明るく元気な人気者と自殺でもしそうなほどに陰鬱な雰囲気のこの男が同一人物だとは誰も気が付いていなかった。 ...−−−1人を除いては。 「春臣君...やっと見つけた。みんな心配して探してるよ」 俯く春臣の視界を遮るように前に大きな壁ができた。その壁からはうざったらしい、嫌いな声が聞こえる。 「どけろ」 「嫌だよ、春臣君のこと放っておけないもん。とりあえず、少し落ち着こうよ」 そう言うなり誠太は春臣の腕を掴むと、力づくで近くの喫茶店まで連れて行った。 春臣自身、それに対し抵抗もするが6年の月日は大きいのだろう、あんなにか弱い存在だった誠太に今はもう全く歯が立たない状態であった。 扉を開ければカランコロン、と小さな鐘が2人の入店を知らせる。大分夜も更ける頃の時間帯だが、店内にはまばらに人がいた。 誠太は春臣を気遣い奥の席へと向かい、春臣が椅子に座るのを待って自分も腰を下ろした。 どうせ今日は寝ないんでしょう、と誠太は春臣が何を言うでもなく店員に珈琲を2人分注文するとスマホを取り出し誰かに連絡していた。 「それで、何。お前は俺を探して何がしたかったわけ。いい迷惑なんだけど」 「...俺は、ただ春臣君が心配で、」 「だからそれが迷惑だって言ってんの。お前も本当よく懲りないで俺に絡んでくるよな」 「だって、俺からいかないと春臣君との接点が無くなっちゃうでしょ?俺ももう前みたいに甘えていい年齢じゃないしさ」 「...」 カタリ、と目の前に置かれる珈琲。温かい湯気とともにあがる香ばしい豆の匂いが鼻の奥を通っていく。 珈琲を置いた店員が去るが、2人の間には静寂が訪れたまま。 春臣はすぐにでもこの場を立ち去ってしまいたい、と店の入り口ばかりに目がいってしまう。 「俺は春臣君の味方だよ、どんな時でも春臣君のそばにいて支えたいんだ」 「...は?」 「だから、俺にできることがあったら何でも言って欲しいんだ。俺を頼って欲しいんだよ」 真っ直ぐに自分を見つめる瞳は揺るぎがなく、重たい視線が春臣に絡みついた。 −それが春臣にとっての重荷、煩わしさだともわからずに。 「あのさ、この際だからはっきり言っておくけど...」 珈琲を一口のみ大きなため息を吐き出す。 「普通さ、ここまで冷たくされたらわかるだろ」 「...え、」 「絡まれても煩わしいだけだって。昔は可愛がってやってたけど、今はお前相手にまるで勃つ気がしないね。なんでかわかるか、」 「やめて、春臣君」 「自分よりもでかい男相手だぞ?誰が好き好んで抱くかよ。ましてや俺が抱かれるなんて気持ち悪すぎて吐き気がする。俺はさ、無垢な少年ってのになれなかったから...だからその象徴みたいなお前で遊んで真っ白な体を汚していくのが楽しかったよ」 饒舌に話す春臣に対し、誠太はこれ以上聞きたくないと耳を塞いで俯いた。 「ひっ、ぅ...っ、」 そんな誠太の股間を、春臣は急に足でグリグリと刺激してきた。春臣からの突然の性的接触に誠太の頬は赤く染まる。粗雑な動きだが自分の性器に春臣の足が触れてると思えば思うほどに素直な体は反応してしまう。 あっという間に誠太の性器は硬く勃起してしまった。 「はる、おみ君...っ、」 熱に浮かされ始めた誠太は俯いていた顔をあげ、濡れた瞳で春臣を見つめた。そう、期待を込めた瞳で。 「お前、本当気持ち悪いな」 しかし、その先にあるのはゾッとするほどに冷たく蔑んだ瞳と生理的嫌悪で歪んだ笑みを浮かべる口元。 そうして誠太は自分の初恋が報われない事実を改めて突きつけられ、それでも春臣への恋慕が冷めない自分自身に絶望した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |