サキュバス日記
淫魔来たる
○月×日
深夜。ベランダのガラス戸を叩く音がして跳び起きた。
夜中であることも大きな理由だが、それより驚いたのはここがアパートの二階だということだ。
こんな時間に外壁をよじ登ってきて驚かすような人物は交友関係には思い当たらなかった。
用心しながらカーテンを少しずらした。ガラスに常夜灯が反射して見えづらかったが、ベランダに女が立っていた。
若い女だ。
全裸だった。
ガラス越しに目が合うとにんまりと笑い、嬉しそうに手を振る。
(……誰だ?)
向こうはまるで知り合いのような態度だが、こちらはとっさに誰だかはわからなかった。
(ユ、ウ、マ)
女の唇が動いた。
(ア、タ、シ)
自分を指差している。深夜であることを憚(はばか)っているのか声は出さない。
唇の形でそう読みとれた。
(サ、キ)
「……え!」
脳が一気に回転しはじめ、遠い昔に栞をはさんだままになっていたページを見つけ出した。
強い警戒心の中に懐かしい思い出が流れ込んできた。
たしかに、よく見れば十年前行方不明になった幼なじみの薄葉早希(うすば さき)の面影がある。
とりあえず、ほかに誰もいないことを確認し、鍵を開け女を部屋に入れた。相手が女であるのと全裸で武器になるようなものを持っていないという油断もあった。本当に薄葉早希であるかは別としても、一糸纏(まと)わぬ姿はなんらかのトラブルに巻き込まれた気の毒な人という可能性もある。そのままにはしておけなかった。
「閑原悠馬(しずはら ゆうま)くんでしょ? ひさしぶりー」
女はフローリングの上にぺたんと座ってこちらを見上げた。
裸であることはまったく気にしていない様子だった。
「早希……なのか?」
「サキだよー」
「……どうなってる?」
十年前になにがあったのか、いままでなにをしていたのか、そしてなぜ真っ裸なのか、聞きたいことがありすぎて、どれから口にしていいのかわからなかった。
「だ、大丈夫なのか?」
まずは現在のこの状況だ。
全裸なのは暴漢に襲われたという可能性もあるだろう。
「ダイジョブ、ダイジョブ、エヘヘ……やっぱりユウくんだなあ。聞きたいこといっぱいあるだろうに、まずあたしの心配をしてくれるんだね」
「でも、おまえ……その格好」
「あ、これ?」
女は自分の躰に視線を落とした。
豊満過ぎる胸が邪魔をして下半身は見えていないように思える。
「気にしないで、いつもこの格好だから」
「え?」
「へへ、なにがなんだかわからないよね。でもサキだよ。ユウくんの婚約者の」
「!」
女はここで本人の証(あか)しであるとばかりに、ふたりしか知らない情報を会話に入れ込んできた。
十年以上前のことである。
「大きくなったら、ゆうくんのお嫁さんにしてくれる?」
おとなしい早希がめずらしくそんなことを言った。
家が近くおない年ということもあって、幼いころからよく一緒に遊んでいた。
「う、うん……いいよ」
ドギマギしながらそう答えたのをおぼえている。
もちろん、ふたりだけの秘密だった。
「最初から話すね」
「あ、ああ……でも、その前に服」
「いいよ、このままで」
「いや、話を聞くにも目のやり場に困る」
「ふむ」
女はまた視線を落とした。
どう見ても視界に入るのは胸の上半分のみだ。
「でも、ムラムラしないでしょ? フラットにしてるから」
「フラット?」
「そう、フェロモンをフラットにしてるの」
意味はよくわからないが、たしかに若い女の裸体にもかかわらずそこに扇情的なものは無かった。豊満な胸、くびれた腰、艶やかな曲線を描く臀部、と抜群のスタイルを前にしても欲情は込み上げてこない。異常な事態だということもあるが、まるで美術館で芸術作品を鑑賞しているような気分だった。
「あたし、自分が出すフェロモンを調整できるんだよ。サキュバスになったから」
「さきゅばす?」
「そう、淫魔。悪魔の一種だよ」
話が突飛なほうへ向かいだした。
「ここまでだって空を飛んできたんだからね」
たしかに飛んできたと言われれば、突然二階にあらわれたのも説明がつくが、にわかに信じられる話ではなかった。
「あ、信じてないな! それならこれでどう?」
女は勢いよく両手を広げた。
「デビルウィーング!」
「うわっ!」
女の背からコウモリの翼のようなものが左右に広がった。
羽の先が棚に触れて上に乗っていた小物が床に落ちた。
「こ、これは……」
「ね?」
この女があらわれた原因として、テレビ番組の企画かなにかかという疑いが頭の隅にあった。
それにしてもここまでリアルに作れるものだろうか?
ドッキリだとしても一般人である自分にこんな大掛かりな仕掛けを使う理由が見つからなかった。
「デ……」
「デビルマンじゃないよ」
家にあったマンガ本を「コワイね」と言いながらふたりで読んだ記憶がよみがえった。
またもや当人しか知らない情報だった。
眉のあたりで切りそろえたストレートの長い髪は昔と変わらないが、額の左右からは牛のような角が伸びていた。
笑うたびにちらりと見えていた犬歯は、鋭い牙に変わっていた。
「納得した?」
すぐに翼と角はしぼんでいき見えなくなった。犬歯の大きさも少し目立つが人間の範疇にもどった。
「ユウくんに悪魔の姿を見られるのは恥ずかしいから……」
「……裸はいいのかよ」
「裸はサキュバスの普段着であり、戦闘服なのだ!」
「服じゃねえし」
「まあまあ、でも、裸はそんなに気にならないでしょ?」
「まあ……たしかに」
これが「フェロモンをフラットにする」ということなのだろうか。
「ちなみにプラスにすると……」
「うおっ!」
突然、肉欲的な感情があふれ出してきた。股間は一気に膨れ上がり、理性が飛んで女を押し倒しそうになった。
「おっと、つぎはマイナスにするね」
「うわわっ!」
いまにも跳びかからんとしていたが、今度は尻もちをついて後ずさった。絶世の美女に見えていたはずの女から、なにやら不快なオーラが出ていた。
そこにいるものは変わらないのに、まるで髭面のマッチョか中年の脂ぎったオヤジに迫られているような感覚だ。
そういった趣味はまったく無いので、股間はみるみるしぼんでいった。
「で、これがフラット」
女がそう言うと、のしかかっていた気持ち悪い圧力はすっと消え、感情の増減もほとんどなくなった。
「ふぅ……」
大きく息を吐き呼吸を整えた。
「なるほど……ただ者じゃないことはわかった」
しかし、薄葉早希であることはまだ認められなかった。見た目はともかく性格があまりにも違いすぎるからだ。かつての早希はもっとおしとやかな少女だった。
ふたりだけしか知らない情報も、本人に聞いただけかもしれない。
「しかたないよ、死ぬような目に合ったんだし、それに、十年……いろんなことがあったんだよ」
女はこちらに手を伸ばしかけて止めた。
同時に全裸の美女を前にした気持ちの昂(たか)ぶりのようなものが完全になくなった。
「ごめん……これが本当のフラット。ユウくんに受け入れてもらえるようにちょっとだけプラスにしてズルしてた。フェロモンで誘っても……淫魔の力をフルに使っても、肉欲をそそるだけで、決して愛されるわけじゃないってわかってたのに」
「で、仮にお前が早希だとして、いまになってここに来てなにがしたいんだ?」
「え? もちろん、ユウくんのお嫁さんになりに来たんだよ。それが人間薄葉早希の願いだったから」
そう言って、「薄葉早希を名乗る淫魔」を名乗る女はふたたびにんまりと笑った。
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