小説 8 「え?」 驚きと困惑を浮かべたその顔は、至って普通だ。 まぁいきなり知らないやつ、しかも男に声をかけられたらそうなるよな。 髪の毛は真っ黒、染めたことがないんだろうな。 あーでも少し自然な茶色っぽさもあるな。 自然な髪だ、自前の髪の毛。 「あ」 彼は何かに気付いたような声を出して、俺の顔を見つめてきた。 声を上げた際に、彼の瞳が少し縦に開かれた。 その後の訝しげな視線は相変わらずでも、剣呑さは感じられない。 予想していた最悪のパターンとは、真逆に近い相手の態度に安心する。 「さっき目合った人だよね、ライブの時にさ」 「そうだな」 覚えていたのか。 そんなに長い時間でもなかったはずなのに。 視線が合ってから離されて、 数曲演奏されるその間、結局もう一度その目が俺を見ることはなかったのに。 「なに?何か用?つーか初対面だよね?俺と君知らない人同士だよね?」 「や、まぁそうなんだけどさ、この後時間とかある?」 「は?」 まずったか! あぁでも眉毛を寄せたその顔も何だか良い。 「は?は?何言ってんの?」 「もし空いてたらちょっとお茶とかどうかと」 「えっ、うっそやだ!」 拒否られた? いやでもマイナスな感じはしない。 「俺の人生初ナンパが男って!これナンパだよね?」 「そうなるな。何なら、君の事がもっと知りたいんだけど、って言ってもいいぜ」 「マジナンパなんだけど!笑える!」 そう言って、俺の前に立つ男は楽しそうに笑い声を上げた。 すごい楽しそうに笑うタイプなんだな。 友人が多そうだ。 少なくとも俺ならこんな笑顔が作れるやつとは、絶対に友人になる確信がある。 「別に良いけど」 「あ?」 「あ?とかさ、いかつい返事だなー。この後付き合っても良いよって言ってるんだよ」 何せ、そうそう経験できないだろう男からのナンパだし!と彼は笑顔を見せた。 緩めに吹いた風で、黒い髪が揺れる。 俺の視界に揺れて映ってきた、人工色の茶色をした前髪とは、違ういろ。 「スタバで良いよな?…………あ、俺田中浩平」 「奢ってくれたり?俺新作まだ飲んでないんだよね。俺の名前は平野悠」 「平野くんな」 「くんはとってよ。何かさそれさ超俺年下みたいじゃん」 俺の横で歩き出した彼は、そう言って少し笑った。 俺は彼を横目で見つつ、足はスタバに、頭はスタバで何の話をして、いやいやその前に連絡先を交換する使命があると考えていた。 昨日のベランダでビール片手に浴びていた、愚痴の積もる湿った生温い風が、今の俺の表情には出さないまでも早鐘を打っている心臓を、丁度良いくらいに冷やしてくれそうに感じた。 「てか奢りスルーなの?」 「奢って欲しいの?平野」 「え、何さその質問。ナンパ者は素直に奢ってよ」 「良いぜ」 たかだか数百円、この平野って男に使うことくらい安い。 この後俺のすべきことは、平野の連絡先を手に入れて、仲良くなって、それでライブハウスでのあの衝撃の正体を確かめること。 何となく、あんな思いは世に聞く都市伝説レベルの、いわゆる一目惚れとか言うやつなんじゃないかって。 でも男だ。 俺の頭の本能の片隅で、男だと声が木霊している。 うるさいな、だからそれを確かめるためにこの後の時間をどうかするのが、今俺がすべきことなんだ。 「トッピングカスタムしていい?田中くん」 「あー浩平にしてくれ。俺、君とは仲良くなる予定だから」 「やべー俺ってば口説かれてる。浩平くんに口説かれてる」 「くんもとって」 「浩平HEY」 「ちょっとカッコいいなそれ」 「嫌いじゃない系?」 「嫌いじゃない系」 スタバの看板が見えてきた―――。 俺の戦場になるであろう、スタバの看板が、見えてきた―――。 . [*退却!][進行#] [戻る] |