32
信長は義元の首を十人の僧をつけて、丁重に駿河に送り返した。
今川義元という強大な敵に礼を尽くし、義元塚を築かせ、弔いのために千部経を読ませ、塔婆を建てさせた。
敵ではあったが、特に私怨があったわけでもない。
ただ、領土を拡張しようとして、尾張に侵攻してきただけだ。
土田御前や勘十郎のように、信長を暗殺しようとした訳でもない。
そもそも、私怨があろうがなかろうが、信長にとって人の死というのは心を痛めるものなのだ。
「お館さま、次は美濃でございますなぁ」
清洲の一室で、家臣がそんなことを言ってきた。
信長にしてみれば、次云々というより、美濃の義龍がどう出るかによる。
確かに蝮の道三からは、美濃を譲るという書状を貰っていた。が、道三が死んでしまえば、そんな口約束同然の書状なんて無かったことになる。義龍にしてみれば、横からかっ拐われるのと同義だったろう。
義元を討ってから一月も経たない内に、義龍が尾張攻めの準備をしていると報告が上がった。
攻めてくるなら、こちらから討って出るしかない。
城下の民を苦しめないためには、被害が少ない方法を取りたいと思っていたからだ。
それでも、美濃攻めをするとなれば、稲葉山城下の民が苦しむのだが、そうも言っていられない。
桶狭間での戦やら多数の首検分などで、心が疲弊しているのは自覚しているが、ゆっくりと休んでいる暇はなかった。
陽炎も出掛けたまま帰ってこなくて、慰めて欲しいのに、その相手がいない。
広間で家臣たちと談笑した後、皆を下がらせた。
ゆっくりと湯につかり、体の疲れを癒やす。
自室で体を丸めて横になる。
まるで子供のようだな、と自分でも思うのだが、体を丸めれば自分の温もりを感じれるから。
陽炎のような安心感は全く得られないけれど、何となくそう行動してしまうのだ。
誰かの、陽炎の温もりが恋しかった。
冷たい褥は、まざまざと孤独の寂しさを呼び起こす。
「また、戦の準備をしないと………」
溜め息が出てしまうのは仕方がない。
俺、戦嫌いなのに、何で戦ってんだろ?
陽炎に言われたから?
……それも違うような気がする。
多分、陽炎に言われなくたって、きっと戦っていた。
生きるために。
今より荒んだ生き方になっていたかもしれないが。
そんなことを考えている内に、いつの間にかウトウトしていたのだろう。
誰がが襖を開けて、静かに近寄ってくる気配を感じた。
髪を優しく鋤いてくるこの感触、すごく好き。
うっすら目を開けて、既に分かっている人物を確認する。自然と笑顔がこぼれる。
「おかえり」
「……その笑顔、反則だろが………。ったく、ただいま」
陽炎は意味のわからない呟きを吐きながら、額に口づけを落としてくる。
信長が擦り寄れば、陽炎は正面から抱き込むように包んでくれる。
陽炎の香りを胸一杯に吸い込んで、額を胸に押し付ければ、腕や背中を優しく撫でてくれる。
それに安心して、ほぅ、と息を吐く。
「大丈夫だったか?」
「うん?」
「首検分、お前にはきつかっただろ?」
「……ん、心配してくれたのか?」
「当たり前だろ。人の首なんて、見ていて気持ちいいもんじゃねぇのは分かるし、そもそもお前、人の死とか苦手だろ?精神的にはかなり参ってるんじゃねぇかと思ってな」
「それ、分かってんなら……検分終わるまで傍に居てくれれば良かっただろ?」
少し、拗ねたような、責めるような口調になったことを信長は後悔した。別に責めるつもりもないし、ましてや、傍にいなかったことを不満に思っていたわけではない。
でも、それを陽炎かどうとるかは分からない。
黙り混んでしまった陽炎に不安になり、何か言わなければと焦るが、焦れば焦るほど、今の状態での適切な言葉が出てこない。
「あ……あのっ、何でもない、何でもないから……」
嫌わないで………。
最後の言葉は口には出せなかった。
口に出すのも恥ずかしかったし、何より、陽炎は元々気紛れな質だから、それで離れていかないとも限らない。
俺って、どんだけ陽炎のこと好きなんだろ……。
陽炎の着物をぎゅっと握り込む。
そうすれば陽炎は頭を優しく撫でてくれた。
「そうだな……これでも早めに帰ってきたんだがなぁ。まあ、確かに信長の言う通りだな。それは俺様が悪かった」
「別に、陽炎は悪くない。だって、周りの様子、見てきたんだろ?」
「ああ。義元が死んだことによって誰がどういう動きをするのか少しばかり気になったんでな」
それって俺のためなのか?
それとも、ただ単に陽炎が興味持っただけ?
そんな思考が頭を過ったけれど、敢えて口には出さない。これ以上、陽炎を煩わすのは止めたい。
「とうだった?」
「今川家は多少の混乱状態にあるが、息子の氏真はどうも、動く気はないな。その代わり、松平が今川の有力な家臣を引き抜いていってるから、そっちが気掛かりと言えば気掛かりだな」
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