27
五月十九日。
今川勢が目前まで迫ってきているにも関わらず、信長はいつも通り雑談をし、軍義もせずに夜遅いからと家臣を帰した。
家臣たちの呆れと、落胆が色濃く出ているのを見て、信長は少しばかり申し訳なく思った。
敵を欺くためにはまずは味方から、とは良く言ったものだと思う。
今ごろ、ある人物が義元に酒を振る舞うべく、今川本隊に向かっているはずだ。
はずだと言うのは、勿論、裏切り行為があるかも知れないと踏んでいるからだ。
仮に失敗したとしても、問題はない。
酒を飲もうと飲むまいと、信長の作戦は決まっている。
「……陽炎」
「なんだ?」
「見ててくれよな」
「……ああ、俺様がしっかりと見届けてやる」
褥に横になり、抱き締め合いながら肺一杯に陽炎の香りを吸い込む。
この一戦で信長の全てが決まる。
ここで命運がつきるかも知れない。
尽きないかも知れない。
陽炎の加護があっても、兵力の差はどうやっても埋めようがない事実で。
信長は陽炎の腕の中から起き出た。
「……行ってくる」
「ああ、行ってこい。俺様にお前の生きざまを見せてみろ。生きて帰ってこい!!」
陽炎の言葉に、信長は静かに、けれども力強く頷いた。
陽炎は起き上がった信長の頬を撫でて、口づけを送る。
これは餞別の口づけではない。
言わば、送り出しの口づけ。
無事に帰ってこいと。
互いの唾液を交換し、ゆっくりと唇を離し、視線をしっかりと絡ませる。
信長は目を瞑り、一呼吸してから、褥を蹴り上げるように立ち上がった。
信長は大地を踏み締めるように床を踏みながら、陽炎が見守る中、敦盛を舞った。
「出陣!!」
急襲。
これ以外に、俺の生きる道はない。
振る舞っているであろう酒に酔っていれば、ほんの少し、勝利の確率が上がるだけ。
「法螺を吹け!具足を持ってこい!!」
当たり前だが、諸将は自分の屋敷に引き上げてしまっているから、揃うわけはない。
それは百も承知の上だ。
向かうは熱田神宮。
そこで態勢を整えれば良い。
広間を移動していくと、小姓組の四人が慌ただしく具足を用意していた。
「湯づけの用意!」
信長は用意された具足を手早く身に付けながら、次の指示を飛ばす。
御神酒を三杯煽り、急いで用意された湯づけを立ったまま腹の中に流し込んだ。
愚図愚図している暇はない。
時間との戦いだ。
湯づけを立て続けに三杯流し込み、椀と箸を投げ捨てるように歩き出し、太刀を手に取るや否や。
「馬引けっ!」
と叫んで走り出した。
その頃に、ようやく法螺の音が聞こえだし、家臣たちの屋敷に明かりが灯っていく。
「向かう先は熱田神宮!急げっ!!」
瞬きの間に用意をした信長は、たった六騎で清洲を打って出た。
その後にやって来る家臣たちの慌てる会話が目に見えるようで、信長は少し笑った。
その顔はまるで悪戯が成功した子供のようだった。
「お館さまは!?」
「お館さまはとっくにご出陣されたぞ!」
「なに!?……どちらへ行かれた!?」
「主従合わせてたったの六騎で、行かれた!」
「急げっ!!お館さまに追い付けっ!!」
そのまま具足を身に付けず、抱えて信長の後を追う家臣も居たと、後になって陽炎に聞いた。
しだいに夜が明け、辺りが白々となり、城の矢倉が輪廓を浮き上がらせた頃、信長は熱田に到着した。
既に早暁には、今川の先発隊が、丸根と鷲津の両砦を攻めて陥落している。
今川方の先発隊には、松平元康がいる。
幼少の頃、今川方に人質として差し出される途中、父、信秀によって奪われ、その後の二年間を過ごした。
その時に信長と出会い、元康の中に底知れぬ力を見た気がしていた。
その元康が、織田の将、佐久間盛重を討った。
東の空に上がる煙を見上げながら、信長は束の間、瞑目した。佐久間盛重の顔が浮かんだ。
元々、盛重は勘十郎つきの家老だった。
それなのに信長に味方してくれ、稲生合戦の折りには、名塚の砦を堅持してくれた。
数少ない信頼できると思っていた人物だ。
ごめんな、盛重。
兵力が少なくて、そっちに人員を割けなかった。
お前なら、分かってくれてると思うけど、せめて、謝らせてくれ。
暫くすれば、甲冑の音と、馬の駆ける音が聞こえ始め、ようやく将兵が追い付いてきたことを知らせた。
これで 陣容を整えることが出来る。
揃い始めた将兵に向かって、信長は静かに言った。
「この俺より先に死ぬことは許さない」
怒鳴った訳でもないのに、信長の声は辺りに響いた。
甲冑の音やらで騒がしかった神宮前は、一気に静まり返った。
「皆、良く聞け!今日はそなた達の命、この信長にくれよ!!」
馬上から叫べば、皆の士気が一気に上がった。
何となく、勝てるかもしれないと感じるほどには、勇ましく見えたのかも知れない。
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