紅と麦の物語



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十二国記小説
when he loved me...
あの人が私を愛していた日は、日常も、風景も、動物も、ちょっとした会話ですら鮮やかでキラキラしたもののように思えた。

共に過ごしてきた日々は本当に長くて、あまりにも長くて彼の視線がまさかあれほど熱いものだったのだということにすら気が付かないほど当たり前の存在だった。

なんて愚かなことだったんだろう。

わかったつもりになっていただけだったのに。

あの人が私を愛していたころは、本当の本当に毎日が楽しかったんだ。

それなのにもう、彼の瞳には私はいない。













「記憶を失われておられます。」

医者にそう診断されたあの人が、ぼんやりと私たちを見渡している。
その光景は、絶望とか失望とか、悲しみとか疑問とか、
たくさんの気持ちで複雑なのに、世界からは色が消えた気がする。

あまりにも濁った瞳でこちらを窺うあの人を正気に戻したくて、
私の姿が瞳に映るほどに近づいてほほを撫でてみた。

しかしぼんやりとした瞳で、ただ不思議そうに見つめ返すだけのあの人に今度は喪失感でいっぱいになった。

もう、その瞳にも心にも、そして記憶にも私のことなんてないのだ。

そう思うとただただ悲しかった。


政務の合間に外に連れ出しては雲海沿いを散歩する。
その手を握ってもやんわりと握り返されるだけで、
それでもこの人といた頃のあの気持ちだけは今もまだ陽子の中にはしっかりと残っているため、
少しでもこの人の中にその気持ちを注ぎ込むように、彼を愛した。

どうすれば良いのだろう?

あの人が、浩瀚が記憶を失ってもう半月近く立つ。

相変わらず雲海沿いを散歩する陽子を浩瀚は不思議に思った。

この人はどうしてこれほど自分に構うのだろう。

眠りから目覚めたとき、ひどくつらそうな顔をして頬を撫でられた。

その時に感じた胸の痛みは何だったのだろう。

分からないことがもどかしい。

必死で記憶を巡っても、始まりはあの寝台で目を覚ました時からで、
どうしてもそれ以前を思い出せない。

手を握ったときの少女の温もりと小ささに、どきりと胸がざわめいた。

もしこの人が自分を大切に思ってくれているのならば、
もしかしたらそれ以前までは己もこの少女を大切に思っていたのではないのか?

「・・・私は君の何なのだ?」

わからない。

だから問う。

貴女は何者で、私は貴女の何なのだ?
どうして貴女はそんなに辛そうなのだ?

はっとしたように振り向く少女は、一瞬驚いたような表情をした。
そしてすぐに寂しそうに微笑んだ。

「何なのだろうな。
ただ、私はお前に多くのものを与えられていた。
とても幼い人間だったし、お前にたくさん迷惑をかけてしまっていたことだけは確かだよ。」

「この国には四季があると聞いた。
その季節を君とともに過ごしていたのか?」

「春夏秋冬いつも一緒だった。
私が寂しがってる時も、貴方はなぜか気づいてくれていた。」

陽子は静かに浩瀚に近づいた。
広い胸も背中も、文官でほっそらしてはいるが、男らしくがしりとした肩のラインも全部知っている。

そっと首に腕を回し、のど元に額を押し付けた。

「浩瀚、好きだよ。ずっとだ。」











その後どうやって自室に戻ったのか覚えていない。
ドカンと脳天をやられたようにふらふらする。

自分はあの柔らかな体を知っている。

少女が寂しがっているその心の奥底には、別の理由があるのだろうことも分かる。

なのに思い出せない!

イラつき、思わず机に置かれた書物を払いのけた。
派手な音を立てて落ちるが気にならなかった。

好きだよという言葉が木霊する。

もしもこのまま記憶が戻らなかったらどうしよう。
何者かすら知らずに、あの娘の心の傷だけを残すなんてできない。

ずきずきと痛む頭を休めようと寝台に寝っ転がる。
すっかり陽も沈み、天井には草木が月光に当たり影を作っていた。
風になびき揺らめくその影はまるで浩瀚を攻めているかのようだった。

急に心の奥底がぽっかりと暗闇に染まりそうになった。
何者なのかもわからない。
彼女を愛していたのかすらわからない。
どうしてここにいるのかもわからない。

一体この肉体に宿る魂は誰の物なのだろう。


侵されそうになる心を振り払うことはできなかった。



陽子はというと、同じようにぼんやりと天井を見上げて長椅子に横になっていた。

政務もひと段落ついていたため、あとは自由時間だというのに、何をする気にもなれなかった。

彼が私を愛していた時はあんなに楽しかった一分一秒が、今や冗長なおとぎ話でも見ているかのようにつまらない。

カタンと音がした。
のそりと首を起こして扉を見ると、細身の男が気まずそうに立っていた。


「浩瀚!?」
驚いて起き上がると、それを制するように浩瀚が片手を上げた。

静かに近寄ると、陽子のそばに、長椅子に背を預けるように腰かけた。

「今夜、ここにいてもかまわないだろうか?」

目を合わせず問う浩瀚に陽子は小さくうなずいた。


痛いほどの沈黙が流れた。
たった一分ほどだったのかもしれないけれど、二人にとっては随分長いような気がした。


ちらりと陽子を窺う浩瀚の視線を感じ、陽子はほんの少し懐かしく感じた。
恋心とは気が付かなかったが、昔もこうしてちらちらと視線を感じた。

でも今は違う。

もう一度視線を感じた瞬間を狙って陽子も浩瀚を見た。

琥珀色の瞳が一瞬動揺したように揺らいだが、すぐに意を決したように体を陽子へと向けた。

「触れても良いだろうか?」

念のためといった風に確認し、是という応えを聞いた浩瀚がそっと手を伸ばし頬に触れた。

柔らかく暖かい頬を何度も撫でた。

そっと唇に指を這わせると、くすぐったそうに声をあげる陽子に浩瀚は一瞬で体が火照ったのを感じた。

その感覚はどこか懐かしいもので、もう一度陽子の唇へ指を這わせた。

「くすぐったいよ。」

起き上がりざまに浩瀚の手を取り、今度は浩瀚が長椅子に寝そべる形になった。
「そのまま目を閉じて、じっとしてろよ?」

腹の上に乗っかりゆっくりと唇を寄せる。
じっとされるがままになっている浩瀚のくちびるに己の唇を重ねる。
久しぶりの口づけは心地よく、陽子は甘えるように吸い上げた。

思い出してと、念じるように何度も角度を変えて交わる。

気付けば浩瀚の両腕はしっかりと背中に回されていて、
互いの体の間には一分の隙間すらなかった。

深い口づけが終わり、ゆっくりと目を開ける浩瀚が熱っぽい視線を陽子へ向ける。

何も言わないことからまだ思い出すには至っていないのだと悟ると、
陽子は腰の帯を緩ませ浩瀚の肌へ直接手を這わせた。

びくりと一瞬だけ逃げようとする体を強く睨み付けて制し、
少し硬くなったそこを包んだ。

ゆるゆると動かすだけであっという間に大きく膨らむそれは以前のままで、
陽子はほんの少し微笑んだ。

しばらく浩瀚のそれを上下に愛すると、陽子はおもむろに顔を近づけた。

浩瀚はというと、あまりに強い刺激に意識が飛びそうになるのを必死でとどめていた。

既視感すらあるその光景を思い出したいのに思い出せない。
あまりにじれったい感覚に頭痛がひどくなってきた。

朦朧とし始めた所、その刺激は突如消え、何事かと見下ろすと陽子が顔を近づけたので浩瀚は驚いた。
そして何か強い力が体中を支配したのを感じた。

だめだ。

誰かが頭の中で叫ぶ。

その声に従うように陽子の体を離そうと力を込めた。

「・・・だめです。」

かすれた声は自分のものなのかそれともほかの誰かのものなのか。

ただわかったのはこの少女にこの行為をさせてはいけないということ。

お前はいつもこうだとふくれっ面になる陽子を今度は強い力で抱き寄せた。
ズクズクとうずくそこはもっと強い刺激を欲しているのに、どうしてだめだと思ったのか。

出そうで出ない答えにいら立ちは増す一方だった。

「来て。」

抱きしめられたまま腰をくねらせ、そこを刺激する。

「早く。」

急かされて浩瀚もゆっくり腰を動かすと、陽子が誘導するように足の付け根に浩瀚自身をあてがった。

一瞬の抵抗を感じたが、ぬるりと挿入されたそこが気持ち良い。

くっと声を鳴らし反り返る陽子を見つめ、その喉元に舌を這わせた。

柔らかい肉を吸い上げ、刺激を求めるように腰を動かした。

どちらからともなく水音が鳴り響き、肌と肌が合わさる音が部屋中に響いた。

ただ互いを求めあい、そうして一段と高まったところではてた。

しっかりと抱きしめあい、荒い息のまま口づけし、
その唾液まで余すことなく飲み干した。

陽子の恍惚とした表情を見て浩瀚はあまりにも簡単に思い出した。

それは本当にあっさりと、まるで他人事のような感覚をもってすとんと浩瀚の胸に収まった。

「主上。」

かすれた声で呼ぶと、怒ったような、泣き出すかのような、
そんな不思議な表情で陽子が浩瀚を見つ返した。

「やっとか。遅い。」

「申し訳ございませんでした。本当に、申し訳ございませんでした。」

つぶやくように何度も何度も謝る。

温かな体をもう一度抱きしめ直し、もう二度とこんな思いはごめんだと、
陽子はただただ目の前の存在を確認した。



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