紅と麦の物語
十二国記小説
いつか貴女に届くように 下
翌朝、暖かい陽だまりの中、はっと目を開けた浩瀚は急いであたりを見渡した。
隣には丸くなって眠る陽子がいる。
その顔をじっと見つめ、昨夜の記憶をたどるも、
光に囲まれたあたりからまったく思い出せない己に恐ろしいほどの恐怖を覚えた。
陽子はどことなく疲れた顔色で、じっと丸くなったままだった。
失礼を承知でその体を抱え、膝に頭を載せてやる。
ついでに外套を脱ぎその体にかけてやると、幾分安心したような表情になった。
じきに始まる朝議に出席しなければ何を言われるか分からない。
それは主のためによろしくないという思いで浩瀚は目を覚ましそうにない陽子を抱きかかえ、静かに歩き出した。
人気のない裏道を通り陽子の私室へ向かった。
来るべき小言の嵐に備えて心の準備は万端だ。
ただ一つ気になるのは、先ほどからどうにも体に違和感があることだった。
気怠さと充足感はまるで夜の行為後を連想させる。
まさかそのようなはずはないと頭を振り、眠る陽子に目を落とす。
ちりちりと焼けるような胸に気づかないふりをして、
瞬間熱くなった体を冷やすかのように早足で歩いた。
その後、祥瓊と鈴、そして玉葉から冷たい視線を浴び、
景麒からは盛大な溜息を吐かれ、ついでに桓タイと虎嘯からは「すげぇ」と間違った方向に感心された。
それら全てを涼しげな顔で無視(スルー)し、浩瀚は普段の生活に戻った。はずだった。
その夜、浩瀚は自室で眉間に盛大に皺を寄せていた。
政務中の涼しげな顔とは程遠い苦しげな表情は決して人には見せないだろう。
体が女を求めている。
この年になって何を盛っているのかとほとほと嫌になる。
求める感触が妙に生々しいのは何故か。
理由が分からずにただただ苛立ちだけが増していった。
それから幾日も立ち、何度か妓楼にも行ったが、
浩瀚の苛立ちは収まることがなかった。
どの女を前にしてもまったく興奮しないのだ。
興醒めしては帰り、一人悶々と過ごすばかりだった。
そしてもう一つ気がかりなのは、陽子の様子が明らかにおかしいことだった。
浩瀚を見る目にかすかに身構えた様子がうかがえるのだ。
浩瀚の混乱は増すばかりだった。
悪鬼事件の時に何かが起こったのだ。
それが分からない以上対応策もとれないだろう。
そう判断し、浩瀚はかの魂が彷徨っていた場所へ向かった。
今宵は満月。
あれからひと月も経ったわけだ。
そこは以前と変わらないように思われた。
しかしわずかながら人の気配がすることに気が付き、
浩瀚は緊張した面持ちで周りを見渡した。
月明かりに小柄な人影が見える。
その人影が警戒するように一言問うた。
「誰だ。」
よく通る女の声は浩瀚もよく聞き知ったものだった。
まさか陽子がいるとは思わず、浩瀚は固まった。
返答がないことをいぶかしむように陽子がじっと浩瀚を見据える。
「浩瀚?」
「はい。」
浩瀚の姿を認め、ほんの少し安堵した様子の陽子は浩瀚に近づこうと一歩踏み出したが、
先ほどよりもさらに警戒した様子でもう一度浩瀚を観察した。
それが不思議で、今度は浩瀚が一歩踏み出す。
「主上?」
「お前、本当に浩瀚か?」
「はい。何をおっしゃっいますやら。」
陽子がこれほどまでに警戒する理由が分からず浩瀚は困惑した。
その様子が伝わったのか、陽子はようやく安心したように息を吐いた。
「すまない。」
浩瀚の目の前まで歩み寄る陽子は月明かりにも分かるほどぶっきらぼうな表情だった。
「なぜこのような場所に?」
「それは私も聞きたいな。
なぜお前がここにいるんだ。」
「私は・・・」
あの夜何があったかを調べにきたなどとは言えなかった。
それとなく陽子に尋ねた時もあったが、主が明らかにその話を嫌がったのだった。
嘘の苦手な陽子が無理に嘘をついてまで言いたくない話題だと気が付いたのだ。
「あの夜のことを調べにきたのか。」
ずばり当てられ、浩瀚は苦笑した。
「さすがは主上。
鋭いご返答でございますね。」
「そうでもない。
それよりお前、体は大丈夫なのか?」
「え?」
虚を突かれたような顔の浩瀚に、陽子は訝しげな顔をする。
「あの日あの男がお前に乗り移った。
朝には消えていたみたいだが、本当のところはどうなんだ。」
鋭い目つきで浩瀚を睨む陽子に一瞬背筋が冷たくなるのを感じた。
「何も変りはございません。
乗り移ったというお話、私は初耳でございますれば、
その時の様子を詳しくお聞かせ願いたい。」
それに陽子は動揺したような顔を見せた。
それが浩瀚に一つ確信めいた答えをもたらした。
そっと跪き、首を垂れた。
「主上、私は一つ確認せねばならないことがございます。
あの夜私は意識を失いました。
その間の記憶は、悔しいことにございません。
朝目を覚ました時に、嫌な予感がいたしました。
もしや私は貴女にたいへんなことをしたのではないでしょうか?」
「だとしたらどうする。」
陽子の答えには感情はなかった。
「私は貴女への罪を償わなければ私自身を許すことができない。」
「だったらお前の中のあいつをとっとと失せさせろ。
目障りなんだ。」
それに困った顔をした浩瀚を陽子は苛立ちを隠せない様子で見つめた。
「時々お前の目があいつに見える時があった。
光の加減かと思ったがどうにも違う、
確かにあいつがいたんだ。」
陽子はさっと目を離し、呟く様に付け加えた。
「あんな浩瀚は嫌いだ。
私はお前の、あの琥珀がいいんだ。」
その言葉を聞いた刹那、浩瀚の体に異変が起きた。
ぐらりとめまいがし、頭がずきりと痛む。
それに一瞬うめき声をあげ、歯を食いしばり耐える。
驚いたようにびくりと体を震わす陽子にかまっていられない。
確かに己の中に別の者がいることを実感したのだ。
びくりと手が動き、求めるように右手が陽子へ伸ばされる。
それを押しとどめるようにもう片方の手で右手を抑えた。
陽子は驚いたようにその様子を見つめた。
そして跪き、浩瀚の頬を包んだ。
「何度もいうが、私はお前の思い人じゃない。
ましてや浩瀚にこんなことをするなんて許せない。」
その言葉に拒絶するかのように浩瀚は頭痛を覚えた。
内側から破裂しそうになるほどの痛みを感じ、
生汗を流し眼を閉じた。
「俺は・・・あなたが好きです。
なのにどうして・・・だ。」
苦し気に紡がれる言の葉はどこまでも切なげだ。
浩瀚の琥珀の瞳にちらりと青の光が浮かんだ。
それを見つめ、陽子は言った。
「あなたは俺の、俺だけの・・・」
それだけを言うと、青の瞳は消え失せ、いつもの琥珀の色に戻った。
「あれは悪鬼です。だから、話を聞いてはいけません。
ましてや情に流されてはだめだ。主上、どうかお逃げくださいませ。」
ぜえぜえと息をしながら話す浩瀚に陽子は目を見開いた。
「何を言うか。
何とかして解決しないとお前はどうなる。」
梃子でも逃げない。
陽子の目はそう語っていた。
それを悟り浩瀚は言った。
「・・・では一つ、貴女にしていただきたいことがあります」
苦し気に脂汗を浮かべながらも、どこか余裕を思わせる笑みを浮かべ、
すっと人差し指を立てる浩瀚を陽子は不思議そうに見つめた。
「水寓刀をお持ちでございますね?」
浩瀚の唐突な問いかけにポカンと見つめるだけの陽子。
「ああ。あるけど、これがどうしたんだ?」
さっと手に持った水寓刀を浩瀚の目の前にかざす。
それを見て浩瀚は笑みを深くした。
「一つ試したく思います。
それで、私の胸を刺してくださいませ。」
その言に陽子は硬直した。
「な、何を言い出すかと思えば。
そんなことできるわけないだろ?」
そうは言ってはみたものの、真剣な面持ちで陽子を見つめる浩瀚に陽子は何も言えなかった。
「時間が・・・ございません。
どうか信じて、くださいませ。」
片方の瞳に青の光がちらつき始める。
浩瀚が必死で悪鬼と戦っていることがわかる。
陽子は泣きそうな気持になった。
もしも失敗したらどうするのか。
取り返しのつかないことになったら自分はどうしたら良いのか。
浩瀚がいなくなった後が考えられず、体は硬直したままだった。
それを見透かしてか、浩瀚がそっと熱い手を陽子の手に添えた。
そのまま抱き寄せるように肩に手を滑らせ、
陽子の握る水寓刀をゆっくりと胸元に突き立てた。
・・・どうか信じて?かつて私が貴女を信じたように
囁かれた浩瀚の言葉は切なく陽子の耳に届いた。
そうして肉を貫く生々しい感触になすすべもなかった。
辺りが真っ蒼に染まる。
それはまるでいつか見た海のようだった。
どこまでも深く青いその世界に陽子は静かに目を閉じた。
ずっしりと伸し掛かるものが浩瀚の体だとうことはわかっていた。
そしてそれがピクリとも動かず、体温すらないのではないかと思われるほど冷たいことにも気づいていた。
-----ああ、やってしまったのか。せっかく俺が可愛がってやろうと思ったのに、
残念な人だよ、貴女は。
青い光が一段と強く光輝いたその時、陽子の耳に柔らかな男の声が木霊した。
-----けど、俺が貴女に抱いた気持ちは本物だよ。本物なんだ・・・
その声が消えたころ、陽子が浩瀚に感じていた気配も消え失せていた。
嫌な夢を見た後のように頭がガンガンと痛む。
閉じた瞼の裏側にまで光が差し込んで、鬱陶しいくらいに眩しい。
そしてその眩しい世界の中で男の声が聞こえた。
それはあの声のように柔らかくもなく、優し気でもない。
どこまでも真面目で、そして心底心配しているといった風な声だった。
うっすらと瞳を開く陽子は、覆いかぶさるように見下ろす浩瀚を見つめた。
「・・・ああ、やっぱりその色がお前らしいや。」
その言葉に浩瀚は一瞬驚いたように目を見張ったが、
すぐに苦笑まじりの表情になり、陽子を抱き起した。
「良かった。
貴女がどうにかなってしまわれたかと思いました。」
寝ぼけ眼でぼうっとしていた陽子は、はっと一瞬で我に返った。
そして相変わらず抱き起したままの恰好の浩瀚を仰ぎ見て、その胸倉をつかみ引き寄せた。
頭突きをする勢いで額に額をぶつけ、
「お前は!!!なんてことするんだまったく!!!!」
と大声で怒鳴りあげた。
「っ!!
お元気なようで安心いたしました。」
あくまでも余裕面する浩瀚に陽子の苛立ちは増す一方だ。
「どういうことかちゃんと説明してくれ。」
ぎりっと鋭い目つきでにらみつける陽子に、軽く額を抑えながら微笑する。
「要するに、毒を以て毒を制す、です。」
「は?まったく分からんのだが?」
「あの魂は洞窟の中でしか悪さをできなかったのです。
ですからあの者が私に乗り移ってより先は洞窟よりも外に出てしまっていたため、
表にでることなどできなかったということです。」
「つまり、昨夜はお前が洞窟に来たからまたあいつが出てきたってことだな?
でもそれとお前の心臓を刺すこととなんの関係があるんだ?」
不機嫌そうに尋ねる陽子に対して浩瀚はどこまでも楽し気だ。
「貴女の水寓刀には強い力がございます。
かつては強力な妖魔も封じられていたほどにね。
つまり、その力を利用し、私の体は傷つけず、鬼の魂のみを死滅させたというわけです。
幸運なことにかの物も水に属する魂でございましたので、自然と水寓刀と惹かれあったのでしょう。」
とのたまう浩瀚はニコニコと満足げな笑みを浮かべている。
しかし気が気ではなかった陽子はそれを見て余計はらわたが煮えくり返る思いだった。
いまだに抱きしめて離さない男の腕を無理やり振りほどき、
呆然とする男をぞんざいに見下ろした。
「もう二度はないと思え。
お前を刺した時の私の気持ちも知らないで。」
くるりと踵を返すと、そのまますたすたと歩みだす陽子。
それを慌てて追う浩瀚は、ふと視界に光るものを見つけて足を止めた。
草むらに転がる青の玉は陽子の持つ物とは少し異なり、
少し小ぶりで、どこまでも深い青色だった。
それが不思議と浩瀚の指になじみ、浩瀚はぎゅっとその玉を握りしめた。
「何してる。早く来い!」
風にのって陽子の声がする。
その声に急いで足を向けたその時、確かにその声が聞こえた。
---貴方が羨ましいよ、浩瀚。
Fin.
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