紅と麦の物語
十二国記小説
いつか貴女に届くように 上
ぎゅっと握りしめた青い玉は
まるで万華鏡のようにキラキラと輝いている。
追いかけても手が届かない紅の華を
この青を握りしめることで抱きしめた気分に浸る愚かさを
今はただ許してほしいと、そう願うだけだ。
[いつか貴女に届くように ]
「浩瀚、金波宮の東に洞窟があるだろ?
あそこで幽霊が出るって知ってたか?」
陽子がそう浩瀚に訊ねたのはその日の仕事もだいぶ終わったころだった。
集中力が切れたためか、夜も更けてきたからかは定かではないが、
陽子がそのような話をするのが珍しくて浩瀚はほんの少し主を観察した。
「いえ、それは初耳ですが。」
誰から聞いたのかと続きを促すと、
「この前お前のところに行った帰りに官吏が話していたんだ。」
と声を潜めて答える陽子。
またまた仕様のないうわさ話だろうと浩瀚は断じた。
しかしどうやら主は違うみたいで、「気味が悪いな。」
とぶるりと身を震わせる始末だ。
それが面白くてクスリと笑う。
「なんだよ。幽霊だぞ幽霊!得体がしれないし、なんだか怖いじゃないか。」
必死な様子でそう訴えかける陽子を意外な面持ちで眺める。
それに不審げな顔をして陽子がじとりと睨む。
「いえ、意外だなと思いまして。
貴女はいつも度胸と根性に溢れておられますからね。」
「いいか浩瀚。幽霊は我を忘れてふよふよとこの世に留まってる存在なんだ。
つまり話の通じない存在なんだぞ。
おまけにやつらは死ぬことがない。もう既にこの世にはいないからな!対抗手段がないじゃないか!」
「しかし誰も気にも留めてはおりますまい。
貴女がお祓いを命じれば別ですが。」
「そんな恥ずかしいこと命じられるか!
お前なら何か良い方法を教えてくれるかと期待したのに。
期待しただけ馬鹿だったよ。」
失望したと言われれば浩瀚の自尊心も傷がつくというものだ。
それではとつづけた先には陽子も意外な応えが続いた。
「私が様子を見に行きましょう。
主上が悪鬼を恐ろしく感じてらっしゃる事実は私しか存じません。
ゆえにこれで丸く収まるというものでございます。」
かくして悪鬼調査が始まった。
その夜、さっそく調査に向かった浩瀚だったが、この後とんでもないことが起こるとは予想だにしなかった。
怖いだなんだと言ってはみたものの、文官である浩瀚をたった一人で行かせるのはどうにも申し訳なく、
陽子は浩瀚の後ろをとことことついてきた。
何度か溜息をつかれたが、そのようなものは完璧に無視した。
「怖いのならば来なければ良いのに。」
自分の背中に隠れるように歩く陽子を呆れた面持ちで見つめ、浩瀚は小さく息を吐いた。
「お前一人だとかわいそうだろ?
私もある意味共犯者なんだからよいではないか!」
「私は一人で大丈夫だと申したはずですが?
だいたいかように震えた貴女を連れても邪魔なだけです。」
邪魔者扱いされては陽子のプライドも傷がつく。
言い返してやろうと大きく息を吸ったその時、
ふと誰かに見られているような気持ちがした。
突如静かになった陽子を不審そうに見つめる浩瀚。
浩瀚の服を握る陽子の手がきつくなる。
それに気づき、浩瀚はあたりを見渡した。
しかし特に不審なものはなく、もう一度陽子に目を戻した。
陽子は一点を見つめ、微動だにしない。
その視線を追ってみれば、何やら青い光が浮いていた。
なぜ気がつかなかったのか。
浩瀚は小さく舌打ちし、その光を凝視した。
その光は特段何をするでもなく、まるで人間の目のように二人を覗っているかのようだった。
陽子の手が小さく震える。
浩瀚は陽子を庇うようにそっと抱き寄せた。
しかしその瞬間、その青い光が輝きを増した。
それはどんどん大きくなり、やがて人のような形となった。
うっすらと目を開け、状況を確かめる浩瀚はその刹那、体中から殺気を放った。
目の前には見たことのない男が立っている。
若い男だ。
キラキラと輝く湖面のような美しい色の瞳に陽子は息をのんだ。
しかし浩瀚はその背に陽子を庇い、男を睨みつけた。
「お前は何者だ?
何故ここにいる。」
その質問には答えず、男はただただ陽子を見つめていた。
それが気に入らず、浩瀚は再び口を開いた。
「お前が悪鬼の正体だな?
何が不満で現世でさまよう。」
「現世?」
ようやく口を開いた男は驚いたように浩瀚へ目を向けた。
声色は暖かく、彼の正体を知らなければどこにでもいるような誠実な青年かと思うことだろう。
「俺はただ彼女に会いたかっただけ。
貴方が誰だかは知らないが、彼女を返してくれないか?」
陽子を指さし、じっと浩瀚を見据える男はどこまでも優しげだ。
「この方が誰だか知っての言葉か?」
「彼女は俺の妻だろ?
俺の妻は綺麗な赤の髪でそれは美しい翡翠のような瞳なんだ。
どうして貴方の後ろにいるのかは知らないが、早く彼女を、緋玲を返してくれ。」
何を言っているのか訳が分からないという風の2人を尻目に、
男が一歩歩み寄った。
「なあ、俺はずっと貴女だけを待っていたんだ。
ずっと、ずっとだ。
貴女だけはいつも俺の味方をしてくれた。
貴女だけがいつも笑いかけてくれていた。」
なのにどうして別の男と共にいる?
男の瞳はどこか悲しそうだ。
それを見て陽子はこの男を哀れに思った。
今にも泣きそうな顔の男を見つめ、浩瀚の制止を聞かずにそっと近づいた。
「あなたは寂しい思いをしていたんだな。
けれど、私は貴女の思い人ではないよ。
私の名前は陽子だ。
外見が似ているのかもしれないけれど、中身はまったくの別人だ。」
吸い込まれるような青の瞳を見つめているうちに、陽子は不思議な気持ちになった。
心安らぐような、今己がどこにいるのかすら分からないような、
あいまいでふわふわとした感覚だった。
それを悟ってか浩瀚が急いで陽子の腕を取り引き寄せる。
しかし突如男が眩いほどの光に包まれたため、二人は再び目を覆ったのだった。
再び陽子が目を開けた時にはそこには浩瀚しかおらず、
先ほどまでの青の瞳の青年は何処かへ消え去っていた。
「どうやらどこかに行ってしまったようだな。
これで一件落着だな、浩瀚。」
嬉しげに腰に手を当ててそう言う陽子への返事はない。
それを不審に思い、浩瀚を振り返る。
月光を背に浴びえていて表情はよくは見えないが、
目元を手で覆い静かにたたずむ浩瀚の姿がそこにはあった。
「どうした?」
やはり返答はなく、陽子はそっとその顔を覗き見た。
俯き加減だった浩瀚が顔を上げ、陽子の瞳を静かに見つめた。
その瞳はいつもの琥珀ではなく、鮮やかな青色だった。
ぎょっとしたように目を見開く陽子に浩瀚はにやりと笑む。
「手こずらせてくれたけれどなんとか御せたかな。」
ぼそりと一人呟くその声は浩瀚の声だが、どこか雰囲気が異なる。
「浩瀚?」
こわごわと呼ぶ。
「やっと体も手に入ったことだし、お楽しみといこうか。」
浩瀚は陽子の肩に手を置いた。
思わずその手を振りほどいた陽子に浩瀚は、男は気にした風もなく微笑んだ。
「浩瀚に何をしたんだ。」
鋭い瞳でにらみつけ、水寓刀に手をかける。
「俺を斬り殺そうというのか?
ま、死ぬのは浩瀚の方だがな。」
「黙れ!早く浩瀚から出ていけ!」
必死で叫ぶ陽子の言葉をさらりと無視し、再度陽子に手を伸ばす男から必死で逃げる。
班渠を呼ぶが何の反応もない。
「無駄だよ。
ここは俺の領域だからね。
ねえ、早く貴女が欲しいんだが?」
あっという間に壁際にまで追い詰められる。
相手は敵だというのに、肉体が浩瀚では斬りつけることすらできない。
それを見透かしてか男がにんまりと笑む。
・・・・満足させてくれたらこの体はこいつに返すさ。
成すすべのないまま、心だけは抵抗を続けていた。
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