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短編小説
7
「俺は自分の名前すら分からない。気がつけば薄ボンヤリした変な霧の中にいたような記憶が辛うじてあるくらいだ。上も下も、右も左も分からないようなところで、なんか凄く泣きたかった。でも、そんな時、オッチャンの背中が目に入ったんだ。大きなオッチャンんの背中見たら安心しちゃって、俺、足を一歩前に出す勇気が出た。そうしたら霧の中から出ることが出来たんだ。オッチャンのおかげだよ」

「俺のおかげねぇ」



 咥えタバコの先を行儀悪くプラプラと揺らしながら、井伏は唸った。幽霊は感謝しているようだが、こいつの立場を考えてみればその霧の中にいた方が正しいことだったのではないかと思えてくる。



 井伏はのっそりと立ち上がった。



「どこ行くんだオッチャン?」

「いちいちうるせぇぞ」



 ズキズキと痛みだした頭を冷やすにはビールが一番だ。井伏は蒸気機関車のようにタバコの煙をふかしながら、台所の冷蔵庫から発泡酒の缶を出した。ビールより安くても今の井伏にはこれも贅沢品なのだ。



「あ〜いいなぁ〜」



 プルトップに指を掛けると、幽霊が羨ましそうに顔を寄せてきた。井伏はギョッとして缶を己に引き寄せる。



「おいおい、お前にゃ胃袋がないだろが」

「ちぇ、けち」

「そういう問題か。身体もねぇくせに文句言うな」



 悔しかったら手で掴んでみろと、井伏は意地悪く缶を幽霊の顔の前で軽く振った。

 ムッと幽霊が眉根を寄せる。頬を膨らませる彼はそんじょそこらの人間よりも生き生きして見えるのが皮肉だ。

 幽霊はひたと発泡酒の缶に視線を据えると、唇を尖らせた。むむむ…と何やら滑稽な唸り声をあげている。

 まるでインチキ超能力の見世物のような仕草をしていたかと思うと、不意に幽霊が眉根を開き、顔を輝かせた。同時に井伏の手の中の重みが消える。





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あきゅろす。
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