短編小説
8
「何でもない訳ないですよ。それ、結構最近の痣でしょ? それにその形…。何かに縛られてたみたいだ…」
「別に、何の変哲もない痣だ。偶然そう見えるだけだ」
「でも…!」
思わずデリクが腕を伸ばそうとした、その刹那。
グラリと屋敷が揺れた。
いや、建物自体が揺れたのではない。屋敷の中の空間が歪んだのだ。目には見えなくても、うなじの毛がそそけ立つ感触が、異常を伝えている。
何か、得体の知れない邪悪な何かが、その歪みからズルリと這い出してくる。廊下の闇で息づいていたのと同じもののようだ。
ソイツは瘴気に似た気配を吐き出していた。
骨の髄まで凍えさせる冷たいそれは、怒りだった。
凄まじい憤怒の気配が、デリクに叩きつけられる。そのほとんど物理的ともいえる異常な圧力に、思わずよろめいてしまった。
「な…何だ?!」
恐怖に喉がひりつき、声が裏返る。
不可視な歪みは強さを増し、客間を丸ごと呑み込んでいくようだ。
この部屋の、屋敷の空間が生命を持ち、デリクに敵意の塊を向けてくる。
呑み込まれる。
いや、押し潰される―――
「―――止めろ!」
「―――止めろ!」
カルナが叫んだ。同時に葡萄酒の瓶を振り上げ、暖炉の煉瓦に叩きつける。堅い瓶が派手な音を立てて砕け、深紅の液体が壁や絨毯の上に飛び散った。
その瞬間、何もかもが消えた。
薄暗い、しかし変哲もない古びた客間だけが、そこにあった。
荒い息遣いが、室内に満ちている。それが自分の息だということに、デリクはようやく気がついた。額に手を当てれば、おびただしい汗でぬめる。
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