Sakura tree
6
マキちゃんから聞いた事を報告する必要がないと思ったのは、わざわざその話題を持ち出して雰囲気を悪くしたくなかったからだ。
先生が仕事終わりにメールをくれて、事務所に居て電話ができるタイミングだったからこちらからかけた。
「あ、先生?」
『こんばんは』
「こんばんは」
声を聞くだけでホッとする。
『怜さんは、まだお仕事なんですね』
「はい。早く終わったら会えると思ったのに……」
先生は朝が早いから、今日は無理そうだ。
『残念です。でも、怜さんも会いたいと思ってくれてるんだと思うと嬉しいです』
同じ気持ちが、嬉しい。
先生。と言いかけて詰まったのは、媚びた女性の声が聞こえたからだ。
『先生ぇ〜、こんばんはぁ』
電話の向こうなのにこちらが緊張して強張ってしまい、何も言葉が出てこない。
『先生の学校、ココだったんですね〜。今お帰りですかぁ?』
『あのっ、ちょっと』
『先生とはまた会いたかったんです。今度はあのお店じゃなくて、他のところに行きましょう?』
会いたいのは自分なのに。
電話をしていても構わないのか、もしくは相手をわかっていてわざと聞かせているのか。
『ねぇ先生!』
『今、電話中ですから』
相手より、先生の慌てる声を聞きたくなくて逃げた。
切ってしまってから、先生がどう思っただろうと考えて恐くなった。
怒るべきはこっちだろうに、逆に嫌われるんじゃないかと不安になってしまう。
マキちゃんに責任を感じさせたくなくて、相談するのはやめた。
先生が女の人に興味が無いのはわかってる。
それを心配してるんじゃない。
自分だって“そう”だから。
ただ。やっぱり、女の人でも誰かが先生に言い寄るのは快いものではない。
落ち込んでいる怜からは柔和な表情が消え、纏う空気は冷たくとげとげしく変化する。
それは皐が畏怖するもので、つまり彼が今苦痛の中にある事を意味する。
何度か電話がかかってきたが、怜は無視して出なかった。
怒ってるわけじゃない。
逃げてるだけだ。
数度無視した後、本当に嫌われる方が恐くなって怜はやっと電話に出た。
『やっと出てくれた…!』
胸がぎゅっと締め付けられる。
『この間はすいません。驚かせてしまいましたね』
どうして先生が謝るの?
先生に謝ってほしいわけじゃないのに。
『一ノ瀬先生とあの店に行った時にマキさんと会ったんです。彼女はマキさんの同僚で、その時に一緒に来ていて』
誠実な人だ。
事実を説明して、誤解を解こうとしている。
『その場のリップサービスだと思ってたので、空気が悪くならない程度に断ってたんですが』
わかってます。
そう一言言えばいいのに。
『その後も店で会ってしまって。だけどそれはたまたまで』
わかってます。
先生が冷たく突き放すような人じゃない事も。
厄介な事に、そんな優しいところが好きだから。
『連絡先は勿論教えてません。この間のは最初に学校を言ったのでそれで』
わかってます。
だって私達は、それを言う事が戸惑われるから。
“ゲイだから”
その言葉のハードルの高さを。リスクを。ダメージを。
わかってるのに、物分りがよくはなれなかった。
「はっきり断ってくれればいいのに!」
酷い事を要求してるとは思う。
けれど我慢できなかった。
そのくせに、先生が黙ってしまったら恐くなって、涙を止められなかった。
「……ごめんなさい…っ」
※
切れた後、真弓は携帯を手に呆然としていた。
控えめで、臆病で、照れ屋で手も繋げないような人にそこまで言わせてしまった。
そんな人だから大事に守ってあげたいと思っていたのに、自分のはっきりしない態度で傷付けてしまった。
もっと早く言うべきだった。
人を傷付けたくないとか、事を荒立てたくないとか。
恥じる事じゃないと言いながら、必要な時に言えないところとか。
そんなことだから、一番傷付けたくない人を傷付けてしまうんだ。
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