短篇
10
「二年くらい前になるかな。僕は初めて君を見た。君がりんご農園で働きはじめて間もない頃だった」
目を丸くしたヘレンを見て、領主様は「君は知らないだろうね」とくすりと笑った。
「まず純粋に、その赤い髪の美しさに目を惹かれた。次に君が控えめでおとなしい子なんだと知った。そして君の飾り気のない清らかな人柄を知った」
領主様がヘレンをそんなに前から知っていたことも、人柄を知るほど見られていたことも驚きだ。
なのに、それだけでは済まなかった。
「りんご酒の産地の、重要なりんご農園だからね。頻繁に訪れても変に思われないんだ。それにこれまでの当主達のお蔭で僕にも親しみを持ってくれているから、一人でぷらっと行っても何も言われないし」
いくら気を使われないように放っておいてくれと言ったからといっても、二年もヘレンがその存在を知らなかったのは何故か。
もしかしたらお忍びの「L」のお方と顔を合わせることがあったかもしれないが、ヘレンは領主様の顔も名前も知らなかったから気付かなかったのだろう。
とはいえ、誰からも何も聞かされなかったのが大きい。
「気付いたら遊びに行くのが楽しみになった。君の顔を見に行くのは、僕にとってのオアシスだった」
彼は、ヘレンを簡単に楽園へと引き込む。
それがどんな感情を背景にしているのか。どんな意味を持つのか、考える余裕はなくなる。
「叔父にはずっと“娘とどうか”と言われていて。お断りしたら、今度は叔父が用意した縁談を次々に……。もう何年もだ」
うんざりといったように首を振り、溜息まじりに語る。
「叔父は自分の意向をより反映できる当主が立つことを望んでいる。きっと僕が若いから、頼りなく見えるんだろう。彼は父の妹が嫁いだ人で、直系でないどころか我が家との血縁がないから、どうしても自分の血縁か親しい家のご令嬢を嫁がせて影響力を増したいんだ」
彼は領主様直系の男子として、大きな責任を負っている。
その結婚にも大きな影響力があることもわかっている。
「手段を選ばず強引に乗っ取ろうとすれば出来ないこともないけど、僕は叔父がそれほど非情な人ではないと信じている。領主家のことを考えてのことだと。だからこそ結婚結婚と言うんだ。それは直系の血を重要視している証だろう。だけど、君を悪く言うのは許せない」
ヘレンの真っ直ぐな眼差しを受けて見つめ返す領主様に、ふわりと微笑みが戻る。
「ねぇ。かわいそうで見てられない。君の涙を拭ってもいいかな?」
恥ずかしくなって慌てて頬を擦ると、ああ。と声をもらして指を振る。
「ダメだよ、強く擦っちゃあ。いーい?涙は押さえるようにして拭って。肌が傷付かないように。それと目が腫れないように」
そう真剣に言い聞かせながら、さっと自らのポケットチーフを取って涙を押さえていく。
「君は清麗な人で、僕の癒しで……。僕にとっては、本当に輝く妖精の様な存在だった」
さっきまでより近い場所で優しい囁きをこぼす彼にヘレンは見惚れた。
丁寧に涙を拭う彼と目が合わないのをいいことに。
「僕はずっと、君に近付けなかった。君に触れられなかった」
禁断の果実。
「僕は迷ってた。君を……このりんごを手に取ったらどうなるか。それを考えると踏み出せなかった。今日のように、きっと君が不幸になるとわかっていたから」
領主様の叶わぬもの。
手の届かないものの象徴。
その禁断の果実は、ヘレンを例えてきたりんごと絡めてたまたま話の流れで連想されたものだと思った。
しかしまさか。
まさか。
「ヘレン」
不意に目が合って飛び上がるほど驚いたヘレンは、頬が紅潮するのを感じた。
それをくすっと笑われて、頬に触れたまま見つめられると、最早思考は働かない。
「だけど、いよいよ追い詰められた時、僕は理性を保てなかった。僕が手にするとしたらこのりんごしかない。僕は蛇の誘惑に負けた」
頬を撫で髪に触れる仕草は優しい。
「そして君とようやく出会えた。あのパーティーの夜に」
来てくれてありがとうと言うが、感謝を述べるならヘレンの方だ。
招かれたのはとても光栄なことだ。
「僕は何度踏みとどまろうと思ったか知れない。間近で君と向き合って、会話をして。それを思い出にはできなかった。葛藤しながら、我慢できずに……。だけど、ごめん」
温もりがヘレンからすっと離れる。
すると途端に寒くなった気がした。
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