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短篇

「 あのっ」

ヘレンは領主様を見つめ返し、思いきって声をあげた。

「ドレスがいただけなくても構いません。でも、この箱をいただけないでしょうか?」

思わぬ申し出だったようで、領主様は目を丸くしてヘレンを見下ろした。
そしてふっと穏やかに微笑み、静やかに問う。

「箱だけ?中身はいいの?」
「妖精って質じゃないのは自覚してます。でも、嬉しかったんです。ケーキの時も、パーティーも、沢山りんごがありました。普段からはとても考えられない経験をして、夢じゃないかって思いました。だから、このりんごはそれらすべての思い出の象徴で、宝です」

もちろんコサージュも、捨てずにとってあるカード類もそうだ。
夢じゃないと思い出すための証が欲しい。
それは一生の誉れになる。

唇を噛んで返事を待つ。
と、微笑みが甘さを帯びる。

「可愛らしいりんごの妖精。僕の言葉は君のものだ。このドレスだって。もちろん箱もね。すべて君のものだ」

領主様に偽りが無いのはずっと感じていたことだ。
その笑顔にも、言葉にも。
けれどこの素晴らしい方の前では、小さな自分が更に小さく思えてしまう。
だからそんなわけがないと疑い、否定する方が簡単だった。

甘い笑みに言葉、声色が、決心を突き崩す。
つい心奪われて、言う通りにしてしまいそうになる。

「着てくれるよね?一緒にお茶を飲もう」

庶民にも平等で、尊敬される領主様。
そんな人の視界の中に居ると、特別になったかのような錯覚を覚える。
ヘレンの日常とはかけ離れた現実で、浮き足立ってしまう。

それでも、だって。でも。と言い訳をさがしてみるが、もう逃げ場は見つからなかった。

「ねぇ?ヘレン」

息が。
止まるかと思った。

胸がぎゅっと苦しくなって、一気に頬が熱くなる。
今、初めて彼に名前を呼ばれたのだ。

初めて領主様を見た時は、昔語りのようなお城に暮らす王子様みたいな人なのだと思った。
それはいわば驚嘆で、芸術の鑑賞と同じだった。
住む世界の違うヘレンから見たら幻想のような存在だ。
けれど、彼はヘレンを見た。
それだけでも光栄であるのに、彼は気さくに笑い、話し掛けた。
そしてヘレンに触れたのだ。

思い出す度恥ずかしくなるのは、初めて家族以外の男性にあの様に触れられたから。
それが領主様なんていうとんでもない人だったから。
優しく甘い言動に免疫が無かったから。
特別なことじゃない。

だって、もう二度と会わないのだ。
例え本当に“そう”だとしても、何もいいことなどない。
そう考えることが既にマズイとわかっていても、ヘレンは“それ”を認めなかった。

これはあり得ない事なのだ。
しかし、頷いたのは無意識だった。
いくら理性が抑え込んでも、本能が領主様の甘い誘いに勝てなかった。
よくないことだとわかっているのに。
また彼の視界の中に立ちたいと望んでしまう。
またあの熱に浮かされたような、甘い魔法を味わってみたいと、愚かな欲望にとらわれる。
それは嬉しい期待を生んだが、自分への大きな失望ももたらした。

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あきゅろす。
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