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短篇

広く立派な屋敷とは言えないけれど、生活には満足していた。
綺麗な着物で町を行く娘達がきらきら笑うそれを羨む事もある。
けれど私には勿体無い程優しく男前もいい夫があったし、何より声の無い私を認め、受け入れてくれた。
そんな幸せを与えて下さる旦那様と共に暮らしていける一生なら、声が無くとも幸せだった。

低い垣根が囲う四角い庭も家に比例してそれなりだけれども、旦那様がいらっしゃれば文句一つ無く立派な城にさえなる。
目を瞑れば旦那様がにこりと穏やかに笑んで下さる。
金魚の如くぱくぱくと口を動かしても、囁きともつかぬ力無い息が辛うじて形を成して漏れるだけ。
腹に力を入れても喉から先にそれが出ない。
溢さぬ様に聞き取って、貴方は丁寧に返して下さる。
何て愛しく、何て素晴らしいお人なのだろう。

貴方。
私は、何かを返す事が出来ていたでしょうか。
そして貴方は、今――。


身を堅くして、少し色が褪せた朱の着物を見詰める。
幸せの城が今や牢獄となり、優しい旦那様は牢番と入れ替わってしまった。
気性が顔立ちに表れた様な優しい御方を何処にやって仕舞ったの?
旦那様は生きてらっしゃるの?
生き延びて居るなら其れだけで構わないのに、浅黒い肌をした牢番は自分がその男だと我が物顔で威張る。
偽の夫。

痩けた頬の上には頬骨が高く張って、目を引くのはつり上がった厳しい縁取りを持つ鋭い瞳。
怒りを露に声を荒らげ、人をなじって楽しむ様に嫌らしく笑みを浮かべる男。
家に縛り付けて逃がさない。

私は毎日を怯えて過ごす。
疑い、責める様な目で見るのも、嘆息をもらすのも許されない。
大人しく従順で、あの男の理想に合った人間でなければ許されない。
自由に泣く事も出来ないなら、笑う事なんて出来る訳も無い。
声だって出ないのに、私は他に何を許されるの?

「行ってらっしゃいませ」も「お帰りなさいませ」も、「御早う御座います」さえ私にはきちんと口に出来ないから、頭を下げた後で相手に伝わったのか伺って仕舞う癖がある。
旦那様は目が合うと笑って下さったけれど、旦那様の振りを続ける男は気分次第で何をするかわからないからびくびくして仕舞う。
更にはそれが気に障って口や手が出やしないかと恐れ、気が休まる時が無い。

私は何の為に生きているの?

逃げて旦那様を探して、また一緒に暮らせれば。
そんな大それた希望はもう持っていない。
せめて生きていてほしいと願う。
心の隅で薄々、あの男が入れ替わる為に手にかけたかもしれないと思っていても、あの男が何も教えない限り希望は消えないである。

遮る物の無い野原に灯された蝋燭の様に、直ぐ様消えて仕舞いそうな危うい光。

雁字搦めの、呼吸をするのさえ窮屈な日常を強いられ、逃げ出そうとする精神力は徐々に衰えていく。
男の気配に集中し、其の心中を気取る。
従順に見せるのがしゃくで幾ら腹を立てても反抗心を悟られてはいけない。

かかとから床板に降りる強い足音に拍動は忙しく鳴り始め、全身の筋肉が強張りながら正座した膝に顔を寄せる。
膳を前に座る紺の着物。
どうか静かに滞りなく今晩の食事が終わりますように。


男から少しでも離れられると気は幾らか楽になる。
それでも気安くはっ、と息を吐き出すのは躊躇われ、気を付けて慎重に息をつく。

何故自分なのだろう。
金持ちなんかではないし、夫を退けてまで欲しがる様な価値のものは何も持っていないのに。

「おい」

何気無い声色でも反射的にびくりと肩が跳ね、体が強張る。
返事が出来ない分素早く目の前まで行って大人しく座る。
うつむいてばかり居ても辛気臭いと怒鳴られかねないから、怖ず怖ず顔を上げてちらと目を見る。
これで返事の代わりになり、同時に言う通りにしてますと印象付けられただろう。
そんな一寸した計算を見透かした様に、感情の見えない顔は冷たく笑う。
怒られる!?と焦り反らした目はふらふらと下の方を泳ぐ。
そんな動揺はまんまと汚い計算を認め、裏側の屈しない心まで露呈する様で反応が恐い。

鼻で笑う気配。
その後は――?

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