短篇
10
眠気が襲うことに不安を覚えるようになったのは、その日からだ。
けれども睡魔には勝てず、恐れの中でまぶたを閉じる。
あれから彼は姿を現さなくなった。
信頼関係を築こうと思ったはずが、逆に損なってしまったようだ。
起きるのがだるくて、上体を起こすのが大変だと感じた時、不安は恐怖へと変じた。
「精霊さん。……精霊さんっ?」
何度呼び掛けてみても、彼は一向に答えなかった。
自分を肯定される世界に甘え、逃避し依存しようとしたことが、魂の曇りを招いてしまったのだろうか。
だから彼はリリィの魂に興味を失い、ここへ訪れてくれなくなったのだろうか。
そんなはずはないとリリィは己を奮い立たせた。
興味が失せたなら放り出すはずだ。
結果それで逃げられるならそうしてもいいが、リリィは変わってしまうことを恐れていた。
誰も認めてくれなくて、さみしい思いをしていたのだ。
やっとそのままでよいのだと認めて、美しいと褒めてくれた。
それが嬉しくて、初めて自分が誇らしいと思えた。
家族も、住む世界すべてを失っても構わないと思うほど、この世界に依存していた。
やはり、変わってしまったのかもしれない。
傲慢で、酷いことを思えるようになってしまった。
清い魂のあり方を失い、彼の肯定もなくしてしまえば、もうリリィには何もなくなる。
「エメル?私……」
「どうされました?」
まだあなたの目にかなうか、と。
恐ろしくて聞くことができなかった。
「いいえ、……いいの」
この逃避さえ、またひとつ魂を曇らせたかもしれない。
喪失を確信するのが恐ろしくて、彼に呼び掛けられない畏怖も。
少しずつ自分から失わせて、やがて何もなくなってしまうのかもしれない。
「エメル。……エメル」
そしていよいよ体を起こしているのが大変になってから、エメルがリリィの異変に気がついた。
エメルは、リリィが彼に要望を却下されたことで少し沈んでいると思っていたのだ。
「申し訳ありません、お姫様!ワタクシがそばに居ながら…ッ。オイ!邪悪なるものよ!現れよ!お姫様の一大事であるぞ!いつまでもヘソを曲げていると、お姫様に見放されても知らんぞ!」
視界がぐらりと揺らぎ、意識が保っていられるのも僅かかと察したリリィは、最期に。と、声を絞り出した。
「精霊さん。ごめんなさい。信じてください。私は、ただ……」
じんわりと熱い涙が滲んで、するりとこめかみを伝って流れる。
「居心地のいいあなたの世界に甘えて、あなたのもとに居たかっただけなんです。だけど、ここでは無理そうだから……」
「お姫様」
子竜がクルルッと悲しげにのどを鳴らした。
「何故それを早く言わなかった、リリィ」
彼の声には責める色があった。
言葉に感情が滲んだのは初めてだった。
そして、声を荒らげるのも。
「いつから気付いていた。私の世界では生きられないと、いつから…!」
「ごめんなさい。私がもっと信頼を得られたら、いつか外でも共に過ごせると思ったのだけれど……」
失敗してしまった。
そしてそれを修復すらできない内に、時間が迫ってきてしまった。
「リリィ」
静かに籠が開いて、そこから運び出すと、彼は腕に抱いたままリリィを舞台に横たえた。
「リリィ。お前の魂は美しい。なのに、いつもあの場所に一人で居たお前はとてもさみしげだった。だからお前をさらったのだ」
彼の手がそっと頬を撫で、髪を撫でる。
宝物を丁寧に扱うかの様な仕草は、リリィに十分伝わるものがあった。
「私はずっと、長い時を過ごしてきた。邪悪で、呪わしいものとして。だがこんなに何かに惹かれたことは無い。リリィ。お前と共にずっと居たかったのだ。だから、時を止めた異空間をつくり閉じ込めた」
時の流れが無い。
それで合点がいった。
肉体はずっと時を止めたままだったのだ。
「お前が眠るのは生身の人間であるからだと思っていたが、やはり私の呪いのせいだと気がつくべきだった」
彼は、すまない。とリリィに謝った。
「リリィ。お前を失いたくない。死ねば転生してお前が消えてしまう」
まだ彼にかなうものであったことを、リリィは嬉しく思った。
まだ彼に求めてもらえる。
そんな自分で居られたことを、ではなく。彼が愛してくれていることがとても嬉しかった。
死の間際に愛を知り、笑えることは幸せだった。
「精霊さん。生まれ変わったら、また会いましょうね」
「いけない。だめだ、リリィ」
精霊はリリィの涙を拭い呼び掛けた。
けれどもう自分を見つめ返してはくれないとわかると、リリィを抱えなおして立ち上がった。
「何処へ行くのだ!?」
「現世へ戻す。そうすればまだ間に合うかもしれん。私のもとへ連れてきたのが間違いだったのだ」
「何を言う!?お姫様の言葉を聞いていなかったのか!お姫様は、お前と……共に居たいとおっしゃられたのだぞ!」
「ならば今見殺しにしろと言うか!生き延びればまだリリィを見ていられる!」
反論する間も無く、精霊はリリィと共に姿を消した。
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