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短篇

水泳部の顧問は四十代の男性教師だった。
厳格で、普段からにこりともしない。
冗談など通じそうもない厳しい人間だ。
人気や実力でひいきすることはなく、秀も他の部員同様険しい顔で睨まれるし怒鳴られる。
むしろ男子部員と張り合ってけしかけている分、秀は実力にあぐらをかいた自惚れの強い女だと思われて嫌われている傾向にあった。
可愛げのない女だと思われていようが、選手として正当に評価されているので秀は構わなかった。
そんな顧問なので、この教師が居る時はプールにギャラリーが集まらない。

部活が終わっても男達に勝負を挑まれるので、秀が帰る頃には大概は女子更衣室に一人だ。
この日も足止めをくらったので、広い更衣室に一人だった。
ベンチに片足を上げて髪を拭いていると、突然ノックも無しにドアが開いた。
そこに立っているのは男だ。

「キャーと叫べとは言わないが、少しは驚くとかしたらどうだ」

無表情でさらりと偉そうなことを言う。

「そっちこそ少しは悪びれろ。私がハダカだったらどーすんだ」

秀は言い返したが、すぐに切り換えて何の用だとたずねた。
男は。
彰(あきら)はそれには答えず、無言のままドアを閉めて秀へ歩み寄る。
切れ長で鋭い目は秀にとまったまま、眉ひとつ動かさず秀の手からタオルを取り上げた。

「おい」

非難の声をもらす。
が、彰は黙って秀の髪を拭き始めた。

「何なんだ」

意味がわからないとボヤきながらも、秀は特に抗うことなくされるがままになっていた。
髪を拭いてくれるならありがたく甘えておこうと思っただけで、そこに深い意味はない。

「雛子」

彼は、秀のことを一人“雛子”と呼ぶ。
彰しかり。秀が男を呼び捨てたり、下の名で呼ぶのは珍しくない。
だが秀が大人以外で名前を最後の“子”までつけて呼ばれることは男女問わずそうあることではなかった。
そして彼はいつも、こうして二人きりの時にしかその呼び方をしなかった。

彼が人目につかないところでは秀を女性として扱ってくれていることを、秀は気が付いている。
ちっとも女らしくない秀を揶揄してのことでは?と思ったが、どうやらそうではないらしい。

骨ばった大きな手が、優しく慈しむように頭を包んで髪を拭うように。
彼は優しさから、本心からそれをしてくれているのだ。
秀はずっとそれを深く考えずに受け入れてきた。
慣れないけれど親切にされる分にはありがたいし、それに彼と過ごす時間はとても気が楽だった。
彼には、そうさせてくれる不思議な空気があった。

秀は彰が言葉を続けるのを待ったが、呼んだだけで何も言わないので待つのをやめた。
口数が多くないヤツなので、それに特別な意味を見出だすことはなかった。

彼はいつもそうだった。
水泳部の他の部員とは違う言動をとる。
秀にやたら勝負を挑んできたりはしないし、部員と一緒になって秀に対する闘志を燃やして負かしてやると意気込むことにも関心がないようだった。
だからといって孤立している様子はない。
彼は同年代の男達よりずっと落ち着いていて、感情的になることがあまりない。
彰は大人で、できた人間。もしくはクールでドライな人間だと解釈され、認められている。

「あんた、変なヤツだな」

きっとそう思うのは秀だけでない。
けれど彰は黙ってはいなかった。

「お前には言われなくない」
「ははっ、そうだな」

尊大だったり、憎まれ口をきく割に、彼の言葉にはトゲがない。
ゆったりと穏やかな低音が向けられる。
秀はそれが心地よかった。
だから秀は、「それで結局あんたは何をしに来たんだ」と無粋なことは聞かなかった。
今、過ごすこの時間が心地いい。
それで十分だった。

秀は単純で、深く考えない人間だった。
かわいたという合図にぽんと撫でられても、秀が荷物をまとめる僅かな時間も待たず一人でさっさと帰ってしまっても。
それ以上のことは考えない。

いつ頃からか、秀と彰はそういう二人だけの時間を共有するようになっていた。
彰はどうか知らないが、秀には特に秘密にしている意識はない。
恥ずべきことではないし、隠すべきとも思っていない。
けれども、何もかも明け透けに話すことでもないと思っていた。
考えた末に至った結論ではない。
ただ何となく、そうしておきたいと思っただけだ。

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