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短篇
16
あくる日は塔へのぼる日だった。
朝一番に時間をもらって部屋へ入ってから、アルトリオはそのことに気付いた。
時を誤ったと後悔したが、自分ごときが辞すると聞いたところで祈りに支障をきたすほど心を動かしてくれるとも思えなかったので、予定通りに切り出した。

案の定。
エーファ姫の表情は動かなかった。
アルトリオに何故?とも聞いてくれなかった。
訪れた数拍の沈黙の間、姫は視線さえ動かしはしなかった。
下がろうとしたアルトリオを引き止めたのは侍女だった。
そしてアルトリオに辞める理由をたずねたのも侍女だった。
気を使って引っ込んでいたが、慌てて出てきたのだ。

「自分はもう、姫様の騎士に相応しい男ではありません」

侍女はアルトリオの言葉を聞き、ムーティ隊長と同じ誤解をした。
そうなると侍女にはそれ以上の言葉が見つからず、残念そうに項垂れて下がった。

扉の前で振り返ったのは、例えそこに感情が見られなくとも、その可憐な相貌を見ておきたいと思ったからだった。
しかし座っていたところにその姿はなく、そこから離れた部屋の中央に立っていた。
それがアルトリオを追ってくれた。そして労いの言葉をいただけると自惚れたのは、アルトリオが姫の顔を見るまでのことだ。

エーファ姫は、静かに涙を流していた。
アルトリオはその時、息が止まるかと思った。
刹那。
ひくりとしゃくりあげた姫が、紅潮した頬を拭った。
そうしてやっと、アルトリオは事実を正しく認識した。
けれど到底信じられるものでなく、疑ったまま姫の前まで戻った。
また酷い自惚れで、錯覚に違いない。
その方がよほど現実的で確実だと思える。
しかし、その逃避は掻き消えた。
細く華奢な姫の手が、そっと控えめに、けれど確かにアルトリオの指先を捕らえたのだ。
すると一気に溢れた愛しさが、アルトリオの胸を焦がした。

塔へのぼる時を知らせる声とノックが、二人に時間を思い出させた。
エーファ姫はさっと手を引っ込めたが、顔を出した侍女がそれに気付いた。
侍女はぱぁっと笑みを咲かせると、声を弾ませて扉の向こうへもう少し準備がかかると断った。
うふふっと笑って、侍女は再び引っ込んだ。

エーファ姫は頬を赤らめ、胸元でもじもじと指を絡めていた。
アルトリオがその手をとりきゅっと握り締めると、ぱっと顔を上げた姫と目が合った。
驚いて見開いた目から、涙がぽろりとこぼれて頬を滑り落ちた。
アルトリオはそれを指の背で優しく拭い、そして甘く微笑んだ。
姫はその笑みに見惚れ、照れて顔をほころばせた。
アルトリオの手に手を重ね、心奪われているエーファをノックが急かす。

「時間です。参りましょう」

穏やかな響きにこくりと頷き、エーファ姫は名残惜しそうにゆっくり手を放した。


前日、ムーティ隊長からアルトリオが辞めるつもりだと聞いたスパイの騎士は、ひどく残念に思っていた。
二人が目も合わせないのはいつものことなのに、それが悲しいものに見えた。
事実を隠すべく、騙そうとして素っ気ない態度を装ったのではない。
二人は互いに、自身の役割に集中しただけだった。
そして指を組んだエーファ姫の中で、変化が起こったのを自覚した。
想いが通じた、愛しい存在が側にあると思うだけで、胸の中からこれまでとは比べ物にならない力が広がっていくのがわかった。
胸に生じた愛しさが、幸せが溢れて限り無く広がっていくようだった。

それから間もなく訪れた収穫の時期には、七日続いた雨の被害が嘘のような実りがあった。
民はそれを奇跡だと歓喜し、泥の中を訪れてくれたエーファ姫に感謝した。

次に塔へのぼった時、姫は轟くような民衆の喝采を聞いた。
大勢の民が、塔の下へ集まっていたのだ。
その中には、多くの尼僧の姿まで見られた。

エーファ姫も指を組み、祈りを捧げる。
その傍らには、愛しく想う存在がある。
姫の胸から溢れた愛が、国中へと広がっていった。

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あきゅろす。
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