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短篇

首を振って引き止める彼が、この胸を苦しめる。

「だけど、こんなに泣いてるじゃないか。一緒に居よう。ここで、俺と一緒に。気に入ってくれただろう?」

彼は、“どっち”を気に入ったかと聞いたのか。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

どちらにしろ、帰らねばならない。

「せっかく君の笑顔が見られたのに……」

するりと手をとられ、指先を持たれると、その甘さに負けそうになる。

「素敵な景色を見せてくれてありがとう。……楽しかったわ、すごく」

ふわりと半透明に戻り、ひゅるりと舞い上がる。

「さようなら…っ」


びゅんびゅんと飛びながら、彼の姿が頭から離れなくて涙が出た。
泣いてる場合じゃないのに。
どれだけ彼から離れても、ちっとも忘れられない。
こんなに彼を、恋しく想う場合じゃないのに。


家へ戻ってくると、ひゅるんと壁を抜け真っ先に御神体のもとへ飛んだ。
窓は開け放たれて、風が広間を通り抜けていく。
御神体に変わりは無かったが鏡がくもってしまっていて、擦っても晴れない。
家から遠く離れてしまったから?と、項垂れて反省する。
帰ってきたのだから戻ってもいいものなのに、変化が無いということは、代々受け継がれてきた鏡の力を自分が離れた事で絶やしてしまったのか。
この鏡の元の持ち主が目撃して以来、一族に精霊を見た人は居ないから、いまだに不思議な力が宿っているかはわからないけれど。
それでも、くもらせてしまったのは確かだ。
しょんぼりしてそこを離れ、少し離れたところから恐る恐るカーペットを見たが、血痕は何処にも無かった。

誰にも見えないし聞こえないのはわかってるけれど、帰ってきたことを伝えたくて家族を探した。
けれど、家の中には誰もなかった。

しばらくホールでひゅるひゅる飛んで、誰かが帰ってくるのを待っていたが、時間が経つにつれ不安やさみしさがつのる。
喪服を着た人達が帰ってくると、丸くなっていた精霊はひゅるっと飛び上がった。
彼らの話を聞いている内にあれから何日も経っている事を知り、そして当主がこの日埋葬されたと知った。

最後にきちんと、お別れの挨拶をするべきだった。
精霊は悔やみ悲しんだけれど、当主が何故亡くなったかとか、死因は何だとか考えもしなかった。
ただ、尊敬し好ましく思っていた人が居なくなった。その事実がとても悲しくて、重要な真実だ。

今度は彼の息子が当主になる。
精霊はまた家族を見守り、一族の平安を祈るだけだ。

明日になれば鏡は戻って、精霊が帰ったことにも気付いてもらえる。
精霊はそう願うようにして、翌日を迎えた。
けれど、鏡は元に戻らなかったのである。

鏡を覗いて溜息を吐く夫人のまわりを飛んで、自分の姿が見えないかと期待したが、結局くもりは晴れず落胆した。
次の日も、その次の日も同様だった。


新しい当主は難しい顔をして、イライラしてることが多くなった。
前はとても爽やかで、感じのいい青年だった。
皆、暗い顔をして、家の中はずっと沈んだままだった。

変化が訪れたのは、次の日だった。
“彼”が、やって来たのである。

今日も鏡は戻らず落胆した夫人について、廊下を飛んでいた時だ。
バルコニーに、その姿があったのだ。

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あきゅろす。
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