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短篇

彼の幸せはここにあるのだと、彼は何度も口にしてくれた。
共に過ごすことが、彼の幸福のすべてだと。
しかしそれは、他のものが皆無価値だということではない。
何を失っても……と言ったけれど、きっとその損失はとてつもないものだ。
両親が言ったように、お見合いでの出会いでだって幸せは見つかる。
ルシアンもやがて新たな幸福を見つけるはずだ。
嫌われ者のフルール一人を得るために、家族や財産、その輝かしい未来を捨てる。
自分にその価値があるかと自問した時、臆病で自信の無い性格がその道を決めた。

「わ、わたし……」

ルシアンが幸福のすべてだった。
それを失った時、私にはもう現世にとどまる意味は無いように思えた。
だから、ナイフを手に取ったのだ。
自らの胸に刃を立てた。
そうして現世を離れたのに、この胸には彼への愛だけが残った。
どうしても捨てきれず、魂を現世と来世の狭間におしとどめたもの。

「……ルシアン」

くらりと視界が揺らぎ、意識が遠ざかる。
日が暮れ、月が昇るのだ。


まぶたに眩しい光を感じ、月光はこんなにも強いものだったかと考える。
ほぅっと溜息を吐くように、鼻からゆっくりと息を出す。
と、違和感。
ぴくりと、まぶたが動かなかったか?

「やぁ、フルール。来たよ」

ルシアン。
現実世界では婚約者と結婚し、新たな幸福を見つけたはずだ。
彼は、フルールの未練が生んだむなしい幻にすぎない。

「今日はどう?顔色がいいみたいだね」

頬を撫でる指先から、何故愛しむ気持ちが伝わるのか。
やはり、本物の彼ではないからだ。
奇跡的に現世へと戻れても、こんなことはもう決して起こらないのだから。

「君は今、どんな夢を見ているのかな。念願の妖精とは会えた?どんな姿だったか、教えてよ。ごつごつした顔の二頭身のおじさんだっていう僕の説が正しかっただろう?羽がはえたかわいい女の子や男の子ってのは、僕はやっぱりフィクションだと思うね」

残念ながら、フルールが好きな空想に登場するような楽しいものは一度も見ない。
いつも闇がわき出して押し寄せないかと怯えていて、楽しみといえば花や月を眺めるといった些細なことだけだ。

「君は楽しい空想が好きだから。妖精と遊ぶのに夢中で、帰るのを忘れてるんだろう。ねぇ、フルール。僕のことまで……忘れたりしてない……?」

歌うように弾んでいた声が苦しげに詰まり、悲しげに揺らぐ。

「僕の顔を見て、どなたですか?なんてイジワル言わないでよね。それとももう、顔も見たくなくなったのかな。……そうだよね。でも、僕は君を愛してるよ。フルール。愛してる。君が去っても、こうして美しい姿をとどめているのは、僕への戒めだろうか……」

沈んだ声はじょじょにしぼみ、最後は独り言ちるかたちになった。
恋人を自死に追い込んだという罪の意識に、彼はさいなまれ続けている。
もう、いいのに。
そう。それを言いに戻りたかったのだ。

「そうだ。花瓶の水をとりかえなきゃね」

そばを離れ、部屋を出ていく気配を感じ、再び息を吐く。

忘れたくないと望み、忘れてほしくないと願った。
けれど、このままではいけない。
彼が幸福を取り戻すためなら、忘れられたってかまわない。
けれど私は彼を想い、これからもこの城に縛られ続けるだろう。
天国に受け入れられず、いつまでもこの暗い世界で、決して叶わぬ恋心に苦しむ。
甘やかな幻に慰められる、愚かな夢を見ながら。
それが自死を選んだ罰だ。

「フルール。お医者様がいらしたよ」

戸惑いが起こったのは、これまではただ恋人との時間だけを意識が認めてきたからだ。
自分の罪を認識したことが変化をもたらしたのだろうか。

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あきゅろす。
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