短篇
或る一つの過去の國。
俺は偉い訳じゃないし富んでもいないし、愛する人間の涙を止める事だってろくに出来やしない。
山が幾つか連なり、その向こうには広い緑の大地が広がっている。
ここに点在する村はそれぞれその村の最年長の者が長となり治めていた。
俺の村は山々の狭間にある小さな村だ。
何事もなく平和に日常が過ぎていた。
俺は村にある万屋で働いているが、彼女が仕事場に来る事は珍しかった。
扉の上部に備え付けられたベルが来客を告げ、振り向くと彼女。
灰色の織物の上着に黒いパンツというスタイル。
黒髪は短く丸いシルエットが愛しい。
しかし彼女は涙していて入ってくるなり入り口の近くに居た俺に抱きついた。
「どうした」
華奢な体を抱き締め何も言わず泣き続ける彼女に小さく何度も問い掛ける。
「何があった?どうしたんだ」
彼女はくしゃくしゃになった紙を差し出した。
それは役所からの御触書。
ごちゃごちゃ書いてはいるがつまりは。
長老を捨てろ。
長老は村人達に頼られ敬われる、村人皆の父であり神の様な存在だった。
当然他の村にもその御触書が出された。
彼女が泣いたように、長老達を慕い尊敬した多くの人々が涙した。
その残酷な布令を下した役所は笑んだことだろう。
何だかんだと言い訳を繕って各村をまとめていた有力者を排除し、抵抗勢力として団結させる事を阻み自らが統治しやすい環境を作り出した。
それからすぐに犬を処分するという御触書が出され、役所の人間が村にもやってきた。
病気など衛生上の問題だとされている。
村から離れた丘の上に建つ古い石造りの廃屋には彼女が可愛がる犬が居る。
崩れた壁の隙間から出入りしているその犬は何も知らず少し離れて見守る俺達を眺めた。
もうすぐ役所の人間がやってくる。
彼女は涙を流し俺はただどうしようもなく佇んでいる事しか出来なかった。
どんな言葉もひどく無力に思え発す事も出来ない。
大切なものが奪われていく。
そんな心の痛みに耐えようとする彼女に何が出来るだろう。
今はただ君を強く愛する事しか出来ない。
そんな情けなくて頼りない俺と、来世も一緒だなんて君はまだ知らないだろう?
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