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短篇
1〈前編〉
一人暮らしをしていたマンションから実家に戻り、母と二人の生活になって何年が経つだろう。
二年か、三年か。
生活を変えることは、そう大きな決断ではなかった。
もうこれ以上一人では立っていられないという時に、ここへ来て座ってもいいのだと母が許してくれた。それだけで。
自ら勇気の要る決断をしたのではなく、自分はただ許しを得、安堵し、救済されただけ。
好きだった仕事が恐ろしくなってしまった変化は悲しいけれど、完全に嫌いになってしまう前でよかったのかもしれない。
もし復帰できなくても、いい思い出としては残るから。


目覚ましのベルが鳴るでもなく、アラームの音楽が流れるでもなく。
一日のはじまりは曖昧に訪れ、ゆったりと動き出す。
仕事があった時は不規則だったけれど、今は自然と七時台には目が覚める。
ベッドの中でぼんやりとしている内に八時を過ぎ、九時前になってようやく起きだす。
ちゃんとした人にしてみればそれはまだ起きたとは言えないと言われるだろうが、どうしても動き出すまでにそれだけの時間が必要になる。
パッと起きて素早く準備を済ませて出掛けていた時は、現場に向かう車中で適当に何か軽く食べていたけれど、今はお茶菓子を少しつまみ、ミルクティーを飲む程度。
のんびりした朝。
それから調子がよければ洗濯をしたり、掃除をしたり。
お昼にはパンを一個食べて、またぼんやりと過ごす。
趣味はない。
だから暇な時にすることがない。
何か始めようかとも思ったが、それほどの気力がなくて諦めた。
結局、趣味と言えるほど好きで、体調が悪くたって手をのばしてしまうのはオペラやミュージカルのCDやDVD。
夕方になったら母が仕事から帰ってくるので、調子がよければ一緒に台所に立ち、夕飯にする。
母が休みの時は可能な範囲で一緒に外出するけれど、遠距離や長時間となるとダメだった。

「おはよう。今日はどう?」
「うん。今日は調子がいいの」
「あぁ、よかった」

朝から笑顔になれるし、今日はミルクティーと一緒に小さなクッキーなんかをひとつふたつじゃなくて、マドレーヌを食べたいと思えた。

「なんだか今日は、とっても空気が澄んでるみたいな、清々しい気分っていうか。景色が違って見える感じがするの」
「それはきっと、いいことがある前触れじゃない?」

ふふっと笑う母が楽しそうで、なぁに?と顔を覗きこむ。

「何か知ってるの?何か企んでる?」
「べつにー?お母さん知ーらないっ」
「なに〜?何かある言い方してるけど」

さぁね。としらばっくれたあとから、わざとらしく。

「お母さん今日は一人でお出掛けしますから。お留守番よろしくね」
「あ、わかった。何かサプライズでプレゼント買ってきてくれるとか?あーあ、バレちゃったからサプライズ失敗ね」
「えー。じゃあお土産は要らないのかー」
「そうは言ってないでしょ!」

意地悪を言ったつもりがやり返されて、結局謝る破目になった。
こんな会話でふざけあえるのも、調子がいい証だ。

いってらっしゃいと見送って、家事をして。ぼんやりしていた。
来客を知らせる電子音が鳴る。
ビーっと鳴るだけの古いものから新しいインターホンに変えたのは、実家に戻ることになったからだ。
戻ったばかりの頃はインターホンに出ることも難しかったけれど、今はようやくできるようになってきた。
それに今日は調子がいいので受け答えもきちんとできる自信がある。

「はい。どちら様ですか?」
「はじめまして。僕はお母さまの友達です」

張りのある、若い男性の声だ。
一瞬ひやりとしたが、ハキハキとした発音の仕方や口調から“あの人”ではないと判断して落ち着きを取り戻す。
冷静になれば、声色も全然違うとわかる。
カメラ付きにしなかったのは、見たくないものを見てしまわないようにだ。
玄関の外に設置した防犯カメラの映像も普段から確認してるわけじゃない。
抑止のため。そして、いざという時の証拠のため。

「申し訳ありません。母は出掛けてしまって、居ないんです」
「はい。今日はお母さまの紹介で、あなたに会いに来ました」

どういうことか。
考え出すと、途端に心拍数が上がる。

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あきゅろす。
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