短篇
3
何処を見るでもなく、日が高くなってきた庭へ視線を投げ、がらんとした家に一人座り込む。
思考力が落ちて真面にものを考えられないで、ただ襲う疲労感で気だるい。
抑圧された日々の生活で心身が消耗されているのだろう。
せめてあの男が居ない今ぐらいはぼうっとさせておいてほしい。
旦那様の顔が浮かぶ。
今何処に。生きているの。
貴方に成り済ます男は放してはくれず、暴力で家に閉じ込めておこうとする。
もう沢山。毎日毎日怯えて暮らすのは。
今なら。
男が居ない今なら逃げられるかもしれない。
もう荷物なんて何も持たないで、全部置き捨てていっていい。
逃げられれば自由になれる。
ゆっくり立ち上がり縁側へ。
そこの履き物を確認し、急いで庭へ下りる。
駆け出そうと踏み出したその時、真っ直ぐに目を見てやって来る男が見えた。
途端に恐怖が襲い震えがくる。
見付かって仕舞った。
逃げようとしたのもきっと悟られて仕舞った。
ぶるぶる震えながら男に気圧されて後退り、混乱しながら履き物を脱ぎ捨て縁側に後ろ向きでずるずると上がる。
腰が抜けてぺたんと座り込んだ直ぐ眼前まで迫る。
(違う。違う!)
逃げようとしたんじゃない。
待って、怒らないで。
手を上げないで。
男は縁側に上がり顔を寄せると、目を黙って見る。
「待って…っ」
苦しくても必死に声を絞り出す。
震えの止まらない手を何とか伸ばして、両の手の指を組んだ男のそれに触れ、まるで愛しい人へそうする様に媚びて甲を握る。
(わかって)
私は貴方を想っているとそう思ってさえくれれば、逃げようとした訳じゃないと信じてくれる。
握る手にきゅ、と力を込める。
ゆらりと動いたのにびくりと反応して堅くなる体を、男は腕を広げ力を入れず抱き締める形をとった。
(……っ!)
肩口に顔が寄り、背に回った手は添える程度。
男の肩口に震える呼吸が触り、許してもらえたかと思えても震えは止まらなかった。
気付くと蝋燭が揺れる薄暗い部屋の中に座っていた。
食事の用意は、明かりは誰が。
わたわたと混乱気味に見回す自分を黙って見ていた男が目に入り固まる。
もしや延々とこうして虚ろな自分を見ていたのか。
まさか。でも。
急に震えがくるのをぐっと我慢して向き直ると、崩れそうになる足を揃えて頭を下げる。
(お食事は)
言葉を準備してから口を開き力んでも、息苦しいだけで音は出ない。
「は…っ」
ぱくぱくと口が動くだけの自分が腹立たしくて眉間に力が入る。
もう一度頭を下げてから、箸と器を持つ様な手の形をつくる。
「おしょ、く…っ」
「いや」
さっと血が引いていく気がした。
とんでもない失態。
「ぁ、あかり」
灯に顔を向けて、泣くのを堪えて頭を下げる。
そして開けた口に手を当てて食事の事を指してから口の動く形で言う。
(すぐ用意します)
幾らか離れた所に座り、男がまだ許さず後からまた何か意地の悪い事をするんじゃないかと恐れる。
呼ばれて恐る恐る見ると、あごで近くへ寄れと黙ったまま示す。
大人しく従うと矢張り罰が下った。
また出来ないと首を振れば今度こそ殴られる。
この男はそうやって奮闘する様を笑い、出来ないと言えば殴って笑い。
目の奥が熱くなっても堪えて口と手を動かす。
男の知っている歌ならば口の形で言葉を悟ってもらえるだろうし、手の動きを音の代わりにする。
「堂々としてた」
(許された……?)
冷たくなった指先をぎくしゃくと合わせ、擦り合わせて熱を取り戻す。
安堵しても緊張は解けない。
涙が伝い、急いでそれを拭う。
許される事など無い。
きっともう二度と無い。
縛られたままなのだ。
褒められて悦んでいると思ってほしい。
逃げられない事を悲嘆してるなどと気取らぬよう。
そうして私が震えて泣くのを、男は黙って見た。
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