ドラゴン 序言 閉ざされた国を船で出て、陸路での旅も長かった。 ようやく辿り着いた地は、出発した国からは正に地の果てとも言える国だった。 大陸の端から端へ渡る長く遠い道程。 夫婦は双子の我が子を抱え、のどかな田園風景を見遣った。 民家や田畑が消え、やがて景色が草原ばかりになると、山の裾野に建つ屋敷が見える。 あそこへ行けば、我が子のどちらかを手放さなければならなくなるとわかっていた。 それが一族の平穏の為であり、繁栄をもたらす為であり、ひいてはこの国の為になるのである。 帰郷を喜ぶ事も、見知った顔を懐かしむ事も最早どうでもいい。 神の加護を得る為に、相応しい器を持つ者が祈らねばならないのだ。 いわば神官の様なもので、選ばれるには神に与えられた印が必要となる。 印を持つ者は、神の子という意味で『御子』と呼ばれる。 御子となれば、この遠い地で一生祈りを捧げて生きるしかない。 双子の内、よりその印が強く現れているのが兄の方だった。 本来ならば御子の候補に入らないはずなのに、わざわざ呼ばれたのは印を持つ者が生まれなかったせいだ。 御子の不在。 それはこの家だけの問題では済まない。 一族は、この国を統治する長でもあった。 統治者が例え民衆から嫌われようとも、御子だけは別だ。 神の御子は民衆の支持があつく、信仰の象徴でもある。 御子が居る事が国の安泰を示すものであり、神の加護が約束された証であった。 だから何としてでも御子を絶やしてはいけない。 大国の触手に絡めとられ、飲み込まれたも同然のこの地で、いよいよ神の加護が失われたとあれば先は見えている。 なのに、御子となる者が現れなかった。 これまで御子が亡くなると必ず印を持つ者が生まれたのに、何年経っても御子は現れない。 後継者についての親族会議と称して集められた一族の大人達は、神妙な雰囲気で集まっていた。 長いテーブルの端、年老いた当主から一番遠い席に夫婦は座っていた。 何故居るのかという冷ややかな視線を受けて小さくなる妻を、夫は黙って手を握り慰めた。 そうだ。我が子が神の御子に選ばれるわけがない。 夫婦はそう信じ、見つめあった。 この屋敷に来て、自分達は自惚れていたのだと恥ずかしくなったのだ。 夫婦を出迎えたのは愛想の無い使用人一人だけで、当主どころか一族の誰も長旅を労う言葉一つ、挨拶一つもかけてはくれなかった。 我が子にさえ、彼らは侮蔑にも見える視線を投げた。 夫婦が会議や晩餐に出席する間に子守りをする使用人を一人だけ連れてきていたが、使用人はお茶も出されない事に腹を立てた。 いいのよ。と妻がいつもと同じように優しく笑みを見せると、使用人は悔しいですと言って泣いた。 ぴんと張り詰めた空気の中、一族の面々の表情は、末席でも夫婦が居るのが図々しいと物語っていた。 当主の前に古びたオルゴールの様な箱が運ばれてくると、会議はようやく幕を開けた。 「さて……」 当主が集まった面々を見回すと、皆がぐっと前のめりになるのを感じた。 「皆も知る通り、未だ『御子』が現れぬ」 しゃがれた声だが、言葉は力強く響いた。 「『御子』が天へ帰られてから、そろそろ一年が経つ。国には、次の『御子』が選ばれない事に不安を抱く者も居る」 地上に生まれた神の子供である御子が亡くなると、父である神の居る天へ“帰る”と彼らは言った。 「次に産まれる子に期待していたが、赤子の印は薄く、とても弱いものだった」 当主に近い席の女性が悔しそうに唇を噛み、他の者は冷笑や怒気を彼女に送った。 「そこで、遠く“神の棲む国”より、わざわざお越しいただいたのだ」 当主の視線を追って、一同の顔が夫婦へと向けられた。 「赤子の一人に、強い印が認められた」 発表されると一同はどよめき、口々に不満が飛び出す。 夫婦は我が子を失う絶望に見舞われた。 当主がテーブルを叩くと再び沈黙が訪れ、そしてしゃがれた声がゆっくりと告げた。 「印は濃く、強いもので、疑う余地が無い。『神の御子』は現れた。抗えば、すなわち、神への反逆となる」 しわの目立つ手が、古びた箱を撫でた。 それが、夫婦から子供を奪う非情な選択をさせたのだ。 暖かかった日射しは雲に遮られ、やがてぽつぽつと雨が降りだした。 「見よ。この雨は、神の祝福である。龍神は我らと共にある」 雨は激しく窓を打った。 [次へ#] |