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シリーズ・短篇

亡き母と長く住んでいた狭いアパートから、香山泉はいきなりマンションの最上階に引っ越した。
さみしい気持ちもあったが、離れたくないという執着はなかった。
過去の自分が虚しい人間だったと気付いたように、母への依存からも卒業したのかもしれない。
今回の引っ越しで、手つかずだった母の遺品をやっと整理できたのはその証だろう。
とはいえ、母に対する尊敬と憧憬は少しも損なわれていない。
ただ、宗教の様に信じていた母から世界の中心が移っただけなのだ。
藤堂凌一郎へと。
そして、彼と出会えたのも母のお蔭だった。

彼は「来い」の一言で引っ越しも強引に決めたが、さみしいか?と気遣ってくれたし、どうしても離れがたいならアパートを借りておいてやるとも言ってくれた。
それはさすがに断ったが。
強引で、横暴で、早急で、最初はとても恐ろしい人だったけれど、今はその優しさが好きだった。


ワンフロアに一戸、メゾネットタイプの7LDKという広い家に彼は一人で住んでいた。
ただでさえ広いリビングは吹き抜けになっていて、一面ガラス張りで更に解放感がある。
そこをぐるりとコの字型に二階の廊下が囲む形だ。

上背があり、骨太で筋肉質な藤堂は、プロレスラーの様な体格だ。
目付きが鋭く、話し方は威圧的だ。
細身の泉がそんな藤堂に見下ろされれば、動物的な本能で強張り、畏縮する。

「何処がいい。上の北側三部屋は俺の書斎と寝室と物置だから、空いてるのはそっちだ」

指したのは南側の四部屋で、リビングに接する一階の二部屋。その上の二部屋だ。
きょろきょろ見回した後、泉は腹のあたりに不安げに引っ込めた手を動かした。

「じゃあ……あそこ……」

階段を上がってすぐの、南西の部屋に決めた。
隣は物置と言った部屋で、その隣が寝室。更にその向こうが書斎だ。

「下はゲストルームとして人に使わせる事もあるが、上には人を入れたことがない。家具も入ってないから、揃えてやらないとな」

狭い家だったのでもとから物が多くなかったし、今回荷物を整理して更に少なくなった。
ベッドも無かったから布団を持ち込むつもりだった泉に、藤堂はそれも新しいのを買ってやると言った。

彼によって新しい自分に変えられていくのは嬉しい。
けれどそれは恐れと不安を生んだ。

「何だ、不満そうだな。お前に金を使うのは俺の楽しみだから、俺を喜ばせろと言ったろ」

泉は小さく首を振った。

「違います。それは納得しました。藤堂さんに甘えます」
「そうしろ」

母子家庭で切り詰めた生活をしていた泉は、我慢する事も多かった。
それを思って藤堂は、俺に甘えてその分を取り返せと言った。
不満をもらさず、非行に走らず、ひたむきに母を尊敬して生きてきた泉を見透かしたように。
ご褒美だと思え、と。

「何か言いたげに見つめるな。一人で黙って考えるくらいなら、まず俺にぶちまけろ。一人で悩むよりいい答えを俺が用意してやる」

随分自信のある言い様だが、妙に説得力がある。

「いえ。あの、ただ……。上に人を入れないってことは、二階はプライベートなエリアなのかなって。そこに僕が部屋を貰ったら、図々しくないかと……」
「嫌なら初めっから下のどっちかを選べって言うだろ。プライベートだからお前を上に入れるんだ」

そんな事にも気付かないなんて。
浅慮を恥じた。

「あ……ごめんなさい。藤堂さんに嫌だって思われる事はしたくなくて……」

震えそうな指をもじもじ絡ませ、うつむく。

「いや。しかしよく上を選んだな。何が気に入った」

少し表情も声色もやわらかくなり、機嫌がいいようだ。
プライベートな場所に入ることを喜んでくれたのなら嬉しい。
自然と顔がほころびる。

「藤堂さんは忙しい人だって聞いたから、そこなら夜遅く帰ってきた時に気付けるかなって……」

鬱陶しいと思われまいか不安を抱きつつ、続ける。

「それに、あっち側だと藤堂さんの部屋の前を通らなきゃいけないから、仕事中に気が散ったらいけないし」
「やっぱりお前は、黙るより喋るべきだな」

藤堂さんはニヤリと笑ってこちらへ手をのばした。

「来い」

言われるがまま側へ寄ると、ぐいっと腰を抱かれて引き寄せられた。

「可愛い奴だ」

男に言い寄られた事は何度かある。
気軽に体の関係だけ結んで遊ぼうという軽薄なものもあった。
今まで何とも思わなかったのに、よろけて触れた男の胸にドキドキした。
その低い囁きにも。

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あきゅろす。
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