シリーズ・短篇
3
さらわれる事が現実味を帯びて、弁護士の言葉を思い出した。
あれは脅しではなく、助言だった。
弁護士として、友人として。
あの男に暴走してほしくないと思ってなだめてきたらしい。
手紙を出したのも、男の代理で何度も来たのも、そのためだった。
弁護士は言った。
「藤堂は、香山さんを手に入れたいと思っています」
それが目的だったのだ。
父のことも、預かっている物があるというのもエサだった。
本当にさらうつもりだったのだから、手に入れるというのもそういう事だろう。
なんて乱暴で、傲慢な男だ。
捕まるなんて嫌だ。
人と距離を置いて付き合ってきたから、かくまってくれそうな人なんか居ない。
今自分が失踪しても、捜してくれる人なんて居ないだろう。
そう思ったら、男に捕まる展開が目に見えてる気がして、弱気になってしまったのだ。
だから、人に心配される隙を与えてしまった。
今日も朝まで家に帰れないのだろうか。
憂鬱な気分で大学を出たところで、「おい」の一声が凍りつかせる。
その姿を見上げたら足がすくんで、逃げようという気さえ恐怖で押し潰された。
いきなり手首を掴まれて歩かれたら、強張る体では抵抗など形にならない。
「待っ、痛いっ。待って、待って…!」
「言ったろう。さらう」
何故僕なんだ。
そりゃあ優しく愛を囁かれたって迷惑なだけだが、手に入れるってこういう事か。
強引で、乱暴な。
「待って、ってば…!」
急に立ち止まられたので、大きくて硬い背中にぶつかって痛い。
「俺は譲歩した。何度も待ってやった。約束を無視したのはお前だ」
こっちは約束を了承したつもりはないし、弁護士を通して何度も断ったはずだ。
この男には相手の意思など関係無いのだろうか。
また手首にぐっと力がこもり、引っ張られそうになって焦る。
「待って。だって、急に……そんな…!心の準備が…っ」
準備なんてできるわけがない。
言われるがまま、男のものになってやる覚悟などしてたまるか。
こんなに強引に言い寄られた事は無いが、怒ったり失望して見せたり、弱々しい声を出してみたりして拒めば大概引いてくれる。
だがそれが通用するとも思えないし、今はそんな余裕も無い。
「弁護士さんにお話した通り、父のことに興味はありません」
だから断ったのに。
「それに、どうして僕を……さらってまで……」
好きだからと言われたって納得するわけじゃない。
ただ、諦めてほしいだけだ。
「俺が欲しいと思ったからだ」
その欲求は、どんな感情からくるものなのだろう。
僕は勝手に恋愛感情だと思い込んでいたが、これはそうではないのでは。
これはまるで、子供がオモチャを欲しがるのに似てる。
「僕の……意思は?」
無い。
きっと考えちゃいない。
「そんなもんお前にあるのか?」
“そんなもん”か。
当然だ。オモチャに心など無い。
物だ。
僕は、自惚れていた。
「人を人とも思わない。誰も信じず、懐に入れず、目にすら入れない。そんな奴に尊重すべき心があるというのか?」
そして僕は愚かだった。
僕は、この男と同じ事を人に対してずっとしてきたのだ。
「ご機嫌を窺ってやる価値があるのか?今のお前に」
無い。無いけれど。
それじゃあ僕は、愚かで生意気な根性を叩き潰して遊ばれるためのオモチャなの?
付けが回って来たのだ。
僕は人を馬鹿にしすぎた。
僕には必要無いと、無価値だとあしらって。
その報いがやって来たのだ。
母はどうだったのだろう。
母は、この生き方を悔やまなかったのか。
そもそも、好きで一人で居たのだろうか。
「もし、父について知っているなら……。母のことも、知っていますか……?」
頷きはしなかったが、じろりと見下ろした目が、知っていると言っている気がした。
「それじゃあ、必ず……。必ず、母の話を聞きに行きます。だから、今すぐは……」
僕はずるい。
卑怯にできてる。
ここにきて、まだ逃げようと企んでいる。
どうせ僕が何を考えようと関係無いのだから、僕が逃げようと考えたって構わないだろう。
逃げられたらこっちのもんだ。
男は僕の愚かさを見透かしたように、唸るように念を押した。
「お前は俺のものだ。何処に居ても、お前の意思に関係無くな」
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