シリーズ・短篇
6
現実の問題から離れる事を許し、休む時間を与えてくれた須崎さんに感謝している。
食事を楽しんだり、自然に笑えたり。
それがふとした瞬間に夢の様だと感じるのは、現実から目をそらしている証拠なのだろう。
そして夢はあっさりと過ぎる。
送ると言ってくれたのを断ったのは、現実へ戻る為に覚悟しなければならないからだ。
与えてもらった希望はまだ死んでいない。
だから再び現実へ向かって行けるし、心配してくれた高見さんにも話してみようと思えた。
マンションに帰ったのは夜も遅くなってからで、それから翌日までずっと、男がいつ怒り狂ってやって来るのかという恐怖にかられていた。
夜になって、この数日の間は自由だったんじゃないかと思った。
男には男の生活があり、目を光らせて居られない時だってあるに決まっていると、至極当たり前の事を思い出して幾らか気分が落ち着いた。
高見さんに話したら「よく話してくれた」と言って、子供を相手にする様に頭をぽんぽんと撫でられた。
そんな事もあって、その日はゆっくり眠りにつく事が出来た。
このまま元の通りに、安心して普通に過ごせる生活に戻ればいい。
本気でそう思った。
悪い夢から解放された気分で朝を迎えた。
希望は死なず育っているのだと、じんわりと感じた。
そしてそれは俺を幸せにしてくれた。
仕事から帰宅したその瞬間まで。
家主を迎える言葉は、一人暮らしには有り得ない。
耳に届いた人の声に痛い程心臓が跳ね、スイッチに伸ばした手が暗闇で震えた。
何故。
何故解放された事を信じ始めたのだろう。
幸せが訪れた事を疑わなかったのだろう。
何故、やがて奪われる希望を大事に抱えて仕舞ったのだろうか。
お帰りと言ったきり口を噤んだままなのが不気味で、沈黙が恐怖心を煽る。
壁際に突っ立っている俺の腕を掴んで座らせると、男は感情の見えない声色で言った。
「何か、言う事は?」
怒るでもなく、笑うでもなく。
動かない表情で突き付ける。
それは暗に、言い訳をしてみろ、と。
自身の生活に戻った男は、何もしていないわけではなかった。
監視の目は変わらずにそこにあったのだ。
それを短い言葉と雰囲気で悟らせる。
重い衝撃に打ちのめされ、答える気力も無い。
力無く視線から逃れそっぽを向くも、追及する様子は無い。
疲労感が一気に襲った。
落ち着かせる為というより、重い腰を上げる為の深呼吸。
「前に、俺を自分だけに頼らせたいって言ったけど……従ってもいいって思った。抵抗するのに疲れたし……、追い詰められて余裕が無いからこそ、他の選択肢を考えられなくなってた」
声が頼りなく震えかけそうになるのを、親指にきつく爪を立てて痛みで誤魔化す。
「須崎さんから電話があった時、気付いたら『助けて』って言ってて……話したらちょっと楽になれた」
自分でも訳がわからずに、考え無しに口から出していると思う。
独白の様なそれを、男はどう思って聞いているのだろう。
「だけど……なのに……今もどういう選択をすれば楽になれるのか、わからない」
おとなしく従えば安全なのか。
こうして知られてしまう事に怯えながらも、男に黙って助けを求める事を続ければ楽なのか。
逃げ出そうとすればそれは叶うのか。
叶うとして、逃げ出せる方法は何処にあるのか。
どうすればいいのか、わからなくなった。
くすん、と鼻を鳴らすと、いつの間にかいっぱいに溜まっていた涙が零れ落ちた。
「だって恐いから…!」
脅して従わせようとするのが悪いのだと男を責める事で、ぐすぐすと泣き始めた言い訳をしている。
だって本当は、こんなにすぐ泣く様な人間じゃない。
こんなに弱い筈じゃない。
冷静になれないまま泣き続けてしばらく。
ふと、男が沈黙を守っている事にやっと気付く。
けれどそこから先に思考が回っていかず、放心状態で流れる静寂の時間を過ごす。
泣いてすっきりとはいかず、逆に疲労感が増した気がした。
ソファーに足を上げ横向きになって、背もたれに頭を預ける。
こちらに体を向けている男と向き合う形になっても構っていられない。
ゆっくりと長い溜息をもらす。
「普通に、優しければいいのに」
恐怖心を煽る様な真似をしなければ。
どうでもいいけど、取り敢えずもっと人並みに接してくれるんなら、今よりはきっと楽になれる。
「貴方は……」
男が口を開く。
「折角逃げ出せる機会を、失いましたね」
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