Lovely Prince
第十一話 特別な人
言葉にするなら……“戦慄”
家の中に見知らぬ男が土足で入ってきて、手には銀色に輝く刃物が握られている。日常に現れたそんな光景を、幼い千草はぽかんと見上げていた。
男の怒声と、父の叫ぶ声はほぼ同時だった。
二人は争いはじめ、千草は気付くと母の腕に包まれていた。
聞いた事のない母の悲鳴が上がり、千草はそこではじめて恐怖を覚えた。
安全なはずの腕から解放され、逃げなさいと背中を押されても、何が起きたのか……起きているのか、理解していなかった。
腹から出血しながらもまだ格闘しようとする父の首を、男は何の躊躇いもなく切り裂いた。
吹き出す赤色と、母の絶叫。
千草はこの時、“戦慄”という感覚を知った。
逃げなさいと叫ぶ母の必死の形相。刺されて赤く染まるのを見てやっと、千草は泣きながら走り出した。
四つん這いで階段を駆け上るのに、手と足がぬるぬると滑った。
千草は両親の寝室のクローゼットに駆け込み、呼吸音さえ聞かれないよう息をひそめて隠れていた。
一真さんと暮らしていた頃は、悪夢にうなされる度に現実と混同してパニックになっていた。
繰り返し見る内にこれは夢だとわかるようになりパニックになる事も減ったが、見る内容が必ずしも事実と同じというわけでもない。
そういった時にこれは事実なのか、虚構なのかと記憶が混乱するという意味で多少パニックになる場合がある。
千草は夢を見ながら、早く目を覚ましたいと怯えて焦っていた。
涙をこぼしながら、ぬるつく手で口を押さえ、この悪夢が早く終わるようにと願った。
しかし、暗闇の中でじょじょに重い足音が近づいて来る。足音はクローゼットの前で止まり、どきりと心臓が跳ねる。
がばっと扉が開いた瞬間、のどから悲鳴が漏れる。
自室のベッドで目を覚ました千草は、恐怖と息苦しさで咄嗟に上体を起こした。
じんわりと滲む汗を拭う手がかたかたと震えている。
枕元のライトだけでは落ち着かず、部屋の電気をつけようとベッドから足を下ろした。が、力が入らずにばたんとくずおれた。
「……っ、ひっ……」
訳もわからず涙が出る。
千草はふらつきながら、衝動的に部屋を出た。
向かったのは京の部屋だ。
ぐすぐす泣きながら、震える手でノックする。
「みさとぉ…っ」
遠慮や躊躇いは頭に無かった。
それよりも早く京の声と体温で安心させてほしかった。
「千草…!」
扉が開いた瞬間、千草は迷わず両手をのばした。それを京も迷わず受け止める。
ぎゅっと抱き締められて温もりを感じ、背中を撫でられてやっと混乱が落ち着く。
「大丈夫。俺が居るから」
こくりと頷いた千草を覗きこみ、京は濡れた頬を拭う。
すると、ぎゅっと狭まった気道が楽になっていく。千草はほぅっと息をつき、ことんと肩口にもたれた。
いつもなら落ち着くまでリビングのソファーで過ごして、そのままうとうとしてしまうのがパターン化した流れだ。
京が気付いた時にはそれに付き合ってくれるが、気付かなければ一人で我慢してしまう。
「京が居てよかった。安心する」
こういう時に、抵抗なく本心が口にできる。
「それじゃあ、俺が添い寝したらもううなされないんじゃない?」
笑みを含む穏やかな低音が、触れ合った体を通して千草の耳に響く。
これまでなら冷ややかな態度だった冗談にも、くすくすと笑いを漏らす。
「そうかもね」
冗談半分の答えの、もう半分は本気だ。
本当に京の言う通りかもしれないと思ったからだが、それでも真剣なトーンで「なら、そうする?」と言われたら驚いてしまった。
目を丸くして、本気で言ってるのかと見上げる。
また千草の反応を面白がって笑うのではという予想は裏切られ、困惑し、目が泳ぐ。
「こうしてぎゅっとしててあげる」
心強い安心感や嬉しさと同時に、そわそわと落ち着かない緊張感がわいて、言葉にならない。
だから「おいで」と誘われるままに部屋に入ってしまった。
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