飲み込まれる
彼の中に狂気が育ったのはもう随分と昔の話である。
周りからの圧力によりゆっくりと育まれた狂気が爆発したのは、20年ほど前であっただろうか。その光景を目撃した者たちは皆一様に恐れ、彼を人ではないものと見なした。ちょうど、今の彼女たちのように。
高笑いをしながら魔力を解放するピゼットの様子に、ジュイは体が震えるのを感じた。戦闘がもたらすアドレナリン解放による快楽ではない。これは、純粋な恐怖。
「……この私がっ…!」
震える右手を左手で押さえ付けて、キッとピゼットを睨む。ピゼットは視線を感じたのか、口元に気味の悪い笑みを携えたまま彼女へ視線をずらした。
にたり、と目が合うと同時に、目を細めて笑う。その目にぞわりと背筋が泡立ち、一瞬体が冷たくなった。思い出したように熱が帰ってきて、急な暑さに体から汗を吹き出す。
リーフェアルトは本気で怯えてしまったのか、腰を抜かしたように立ち上がることも出来ずに狂気の塊と化した男を見つめた。
心に宿るのは恐怖のみ。もう、自分はドリミングで相手はファンタズマだとか、そんなことすらどうでも良くなっていた。ただ、純粋に逃げ出してしまいたかった。
笑ってるだけなのに、狂気が刃となって突き刺さってくるようだ。何もされていないのに、身体中が痛いと悲鳴を上げる。
「怖いよ…」
涙すら流せずに、恐怖の感情に飲まれた彼女はポツリと言葉を溢した。その小さな、囁きのような声も彼の耳に届いたらしく、ゆっくりと視線が立ち上がることの出来ない彼女へと向けられる。
目が合って、さらにリーフェアルトの体は機能を失った。恐怖に、気管がすくむ。その為か呼吸をする事も儘ならなくなり、息苦しさにさらに体が機能を無くしていった。
「リーフェアルトっ!」
その様子を見て、ジュイが怒号のような声を上げる。その声に意識が呼び戻され、リーフェアルトは咳き込みながら呼吸を取り戻した。
「怖い…?」
その時、ピゼットから声が放たれる。顔を上げると、リーフェアルトをじっと見つめたピゼットが、無表情で立っていた。
ずっと恐ろしげな笑みを広げていた彼から表情が消えて、それは酷く切な気な色を持っていて、ジュイもリーフェアルトも驚きで目を見開く。
「ははっ」
だが、また彼の口元に笑みが浮かんだ。
「ひゃはははははははははは」
また、身も震える笑い声が挙げられ、彼女達に混乱を生む。ピゼットは笑いながら両手で頭を抱え込むと、次第に大きく肩を揺らし出した。
「みんなみんな…消えて無くなっちゃえばいいんだ」
高笑いの中、低い声で声が紡がれる。その言葉に眉を潜める間に、彼の回りに魔力が渦巻いた。
「全部消えろぉぉおおっ!」
叫びのような声と共に、魔力に色が付き、形を形成しだす。呪文念唱のない魔力が形を産み出していく事に驚愕しながらも、迎え撃つために身構えた。リーフェアルトもなんとか立ち上がると、形を形成する魔力を見つめる。
「なんなの…?」
その魔力に体が震え、両の腕で自分を抱きしめた。
黒く色付いた魔力が、形を作る。それは水分の少ない墨で描いたような、形の曖昧な何か。ギザギザとした体に、細く長い手が伸び、短い足が地の上でゆらゆらと揺れている。顔と思わしき場所には、あらゆる色が混ざり汚くなった円が2つあり、目のように見えた。口も同じく汚いマーブルの色で構成されており、ダラリとしまりのない口から絵の具のように斑な液体が零れる。
呪文を唱えなかったせいか酷く不安定なそれを見ながら、ジュイもリーフェアルトも汗を流した。
「……暗いよ…怖いよ……」
頭を抱え、俯いたままピゼットはぶつぶつと呟く。その度に黒く異質な何かが魔力から形成され、どんどん溢れ出してきた。
「イヤだぁぁああああああー!」
泣き叫ぶような声が木霊する。その叫びを合図に、黒い何かが一気に彼女達に向かって飛び掛かってきた。
「このぉっ!」
ジュイは魔力の玉を作ると、それを一体に向けて放った。ぶつかった魔力同士が弾け、黒い液体を飛び散らせて行く。だが、その液体からまた新たな黒いものが生まれてきて、無音で近付いてきた。
「《我、彼の者を拒絶する》!!」
リーフェアルトも急いで呪文を唱えると、彼女の回りの空間が遮断された。その遮断された見えない壁に、ベチャベチャと黒いものが飛び付き、貼り付いてくる。そして、その魔法を食い破ろうとするかのように口を上下に動かし出した。
ただ円があるだけの、どこを見てるかもわからない斑色の目がたくさん目の前にある。そして、自分の魔力を食すかのようにパクパクと口を動かしているのだ。その光景に、リーフェアルトの足はすくむ。怖い、その感情で満たされたとき、彼女が作り出した遮断の壁が破壊された。
阻むものが無くなった黒いものが、一気に彼女に飛び掛かる。成す術もなく、彼女は黒い何かに飲み込まれてしまった。
「リーフェアルト!」
魔法で何とか進撃を食い止めていたジュイは、その光景に叫び声を上げる。大量の黒いものに押し潰されたリーフェアルトは、悲鳴も上げれずに歯を食い縛りながら目を閉じた。
「違うよ……怖くなんてないんだよ」
そんな中で、彼女の耳に声が飛び込んできた。驚いて目を見開くと、やはりどこを見ているのかわからない顔たちがたくさん目の前にある。
「僕を見てよ」
「寒いよ…寒いよ……」
「お腹減ったよ…」
「怖いよ……殴らないで…」
次々に飛び込んでくる言葉。一様にこちらに目を向け、口をパクつかせる黒いもの。リーフェアルトは衝撃で息をするのも忘れる。真っ暗な中で、目と口だと思われる斑色のものたちが、口々に声を出していた。
「僕は悪魔なの…?」
目の前にいた黒いものの口が動いた。発せられた声は、幼子のもの。間違いなく、この恐ろしい何かから発せられたのだ。
驚いて見つめていると、どこを見ているのかわからない瞳と目が合ったような気がして、自らの目を見開く。同時に、彼女の意識が一瞬のうちに別の場所へと飛ばされた。
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